教会時論・説教(2025年2月23日)
+主の平和がありますように。
皆様、本日もこうして共に集まり、聖書の言葉に耳を傾けることができる恵みに感謝いたします。二月も下旬を迎え、寒さの中にも春の兆しが感じられる頃となりました。朝晩の冷え込みが厳しい日が続きますが、皆様のご健康はいかがでしょうか。風邪やインフルエンザの流行も見られますので、どうぞお身体を大切になさってください。
本日は顕現後第七主日を迎えました。顕現節は、クリスマスに生まれた救い主イエス・キリストが、世界にその姿を現されたことを記念する時期です。イエスがユダヤだけでなく、異邦人にも救いをもたらす方であることを示すこの時期は、わたしたちにとっても、信仰の本質を問い直す機会となるでしょう。本日の聖書箇所に目を向けると、「赦し」と「愛」というテーマが浮かび上がります。ヨセフの兄弟への赦し、イエスの「敵を愛しなさい」という教え、パウロが語る復活の希望——これらはすべて、神の愛がどのようにわたしたちを生かし、導くかを示しています。
この一週間、世界ではさまざまな出来事がありました。アメリカではトランプ大統領の復帰後、国際援助の停止や監察官の一斉解任が進められ、民主主義の原則が揺らぐ状況が続いています。日本では、政府が核兵器禁止条約の締約国会議への不参加を決定し、被爆国としての責務について改めて問われています。また、コメの価格高騰が続き、生活に直結する食料問題が浮上しています。
これらの問題は決して遠い世界の出来事ではありません。わたしたちはどのようにこの現実に向き合い、信仰者として何ができるのでしょうか。本日の説教では、神の愛と赦しがどのようにわたしたちの日常生活に影響を与えるかを共に考えていきたいと思います。
▼ 教会時論
わたしたちは日々、社会の動向と向き合い、その変容に応じて己の信念を問い直す時を持ちます。時に、社会の激動がわたしたちの心に深い影響を与え、これに対していかに向き合うべきかが問われます。本日は、目の前に広がる社会の現実を見つめ、その中でわたしたちが果たすべき役割について共に考えてみたいと思います。
この数週間、世界は大きな転換点を迎えています。米国では、トランプ政権が復帰して1カ月が経過し、対外援助の停止や監察官の一斉解任など、民主主義の原則を揺るがす動きが加速しています。一方、日本では、政府が核兵器禁止条約の締約国会議への不参加を決定し、唯一の被爆国としての責務を放棄するかのような態度が国際社会の批判を浴びています。また、トランスジェンダーの競技参加をめぐる議論が白熱し、多様性と公平性の両立について改めて問われています。
さらに、わたしたちの生活に直結する問題として、コメの価格高騰が深刻化しています。政府は備蓄米の放出を決定しましたが、流通の不透明性が浮き彫りになり、食料安全保障の根本的な課題が明らかになりました。食べることは生きること――この基本的な権利を守るために、わたしたちは何をすべきなのでしょうか。
これらの問題は、決して他人事ではありません。それぞれの事象は、社会の構造や価値観を映し出し、わたしたちの信仰にも深く関わる課題です。聖書は「正義と公平を行うことは、主に喜ばれる」(箴言21:3)と教えています。では、わたしたちはこれらの社会の現実にどのように向き合い、どのように応答すべきなのでしょうか。
今朝の《教会時論》では、これらのニュースを詳しく掘り下げ、聖書の視点から考察していきます。わたしたちが信仰に基づいて何をすべきか、社会の変化の中でどのような役割を果たすべきかを共に考えましょう。
Ⅰ トランプ流政治と米国の信頼の危機
トランプ大統領が再び政権を掌握して1カ月が経過しました。この短期間で、彼の施策は米国の民主主義の根幹を揺るがし、国際社会における米国の信頼を大きく低下させています。特に、外交政策の急激な変化と、国内行政の統制を強める動きは、これまでのアメリカの基本的価値観を覆すものとなっています。
その象徴的な例が、米国際開発局(USAID)の解体です。USAIDは、発展途上国に対する人道支援や教育・医療の向上に貢献してきましたが、トランプ政権は「米国第一主義」の名の下に、そのほとんどのプログラムを凍結しました。その結果、世界各地で難民への医療提供が滞り、最も弱い立場にある人々が被害を受けています。さらに、こうした空白を中国が埋めることで、アメリカの国際的影響力は急速に低下しています。米国が誇る「自由と正義」の理念は、単なるスローガンに成り下がりつつあるのです。
また、トランプ政権は、各省庁で独立性を保っていた監察官を一斉に解任しました。これにより、政府内部での権力の監視が機能しなくなり、腐敗や不正が横行する危険性が高まっています。さらに、連邦議会占拠事件の捜査に関与したFBI職員の大量解雇や、過去にトランプ氏の政策に異を唱えた元軍幹部への報復など、個人的な怨恨を政治に持ち込む姿勢も鮮明になっています。こうした統治スタイルは、法の支配を軽視し、個人独裁へと向かう兆候を示しています。
経済政策においても、トランプ氏は「アメリカの利益」を掲げる一方で、同盟国への高関税措置や貿易交渉の一方的な見直しを進めています。日本や欧州諸国は、これによって経済的打撃を受ける可能性があり、国際社会の協調体制に亀裂が生じています。加えて、DEI(多様性・公平性・包摂性)の見直しや移民政策の厳格化は、アメリカ社会の多様性を損ない、人権問題として国際的な非難を浴びています。
聖書は、「王が正しい裁きによって国を安定させても 貢ぎ物を取り立てる者がこれを滅ぼす」(箴言29:4)と語っています。トランプ政権の政策は、国を支えるべき正義と公正を犠牲にし、力と威圧によって支配を強めるものです。しかし、歴史が示すように、このような統治形態は長くは続きません。わたしたちが目指すべき社会は、抑圧や排除ではなく、すべての人が尊厳をもって生きることのできる社会です。
日本に住むわたしたちにとって、この動きは決して他人事ではありません。日本はアメリカとの同盟関係を重視する一方で、民主主義と人権を守る責務も担っています。政府が盲目的にトランプ政権の政策に追随するのではなく、自国の価値観を明確にし、国際社会において建設的な役割を果たすべきです。教会としても、排外的な政策や差別を容認するのではなく、すべての人々の権利を守るために声を上げる必要があります。
米国の変化は、世界に波及する可能性があります。しかし、わたしたちはただ状況を見守るのではなく、信仰に基づいた行動をとることが求められています。今こそ、平和と正義のために何ができるのかを考え、実践する時なのです。
Ⅱ 被爆国の責務と核兵器禁止条約への不参加
日本政府は、3月上旬に米国で開催される核兵器禁止条約(TPNW)の締約国会議へのオブザーバー参加を見送ることを発表しました。唯一の戦争被爆国であり、「核なき世界」の実現を掲げてきた日本にとって、この決定は国際社会からの失望を招くものです。政府は「日本の安全保障に支障を来す恐れがある」と説明していますが、ドイツやオーストラリアなどの同盟国がすでにオブザーバー参加を果たしていることを考えれば、その言い訳には説得力がありません。
核兵器禁止条約は、核の保有や使用を全面的に禁止する国際条約であり、すでに73カ国・地域が批准しています。しかし、核保有国や、米国の「核の傘」に依存する日本は未加盟のままです。これまで日本政府は「核保有国も参加する核拡散防止条約(NPT)の枠組みの中で軍縮を進めるべきだ」と主張してきました。しかし、NPT体制の下で核軍縮がほとんど進展していないことこそ、核禁条約が誕生した理由であり、日本の立場は国際的な説得力を失いつつあります。
日本政府は長年、核保有国と非保有国の「橋渡し役」を自任してきました。しかし、会議にすら出席せず、非保有国との対話の機会を持とうとしない姿勢は、まさに「橋を断つ」行為そのものです。昨年、ドイツが核実験の被害者支援を表明し、国際的な核軍縮の議論に積極的に関与したのに対し、日本はほとんど存在感を示せませんでした。被爆80年を迎える今、日本こそが核の非人道性を訴える最前線に立つべきではないでしょうか。
さらに憂慮すべきは、政府の優柔不断な姿勢です。公明党や一部の自民党議員がオブザーバー参加を求めたにもかかわらず、石破首相は「検討する」と繰り返しただけで、最終的に不参加を決定しました。この間、トランプ政権の外交方針への対応に追われ、核軍縮に関する指導力を発揮する機会を完全に失ってしまいました。自民党内では、一時「議員団を派遣する」との案も浮上しましたが、それも立ち消えになっています。
核兵器禁止条約は、単なる理念の問題ではありません。ウクライナ侵攻を続けるロシアが核兵器を「抑止力」として利用し、実際に使用の可能性を示唆する中で、核兵器の廃絶は喫緊の課題となっています。日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)にノーベル平和賞が授与されたことも、こうした危機感の表れです。世界は今、核兵器の危険性を改めて認識し、その廃絶に向けた取り組みを強化すべき時にあるのです。
聖書には、「平和を実現する人々は、幸いである、 その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイによる福音書5:9)とあります。核兵器の問題は、単に国家の利害の問題ではなく、全人類の未来に関わる倫理的な課題です。被爆国である日本がその責務を放棄することは、世界に対して誤ったメッセージを送ることになります。わたしたちは、政府に対し、核軍縮の推進に向けた積極的な行動を求めるべきです。
市民一人ひとりも、この問題に関心を持ち続けることが重要です。核兵器禁止条約へのオブザーバー参加を求める声を上げること、核兵器の非人道性を学び、周囲と共有すること、そして平和のための活動に参加することが、わたしたちにできる実践です。日本が本当に「核なき世界」に貢献する国であるのか、それは政府の判断だけでなく、わたしたち市民の意識と行動にかかっています。
日本政府は今こそ、被爆国としての責任を果たすべきです。核兵器禁止条約の締約国会議への参加を再検討し、国際社会の核軍縮の流れに積極的に関与することで、未来の世代に平和を託す道を切り開かなければなりません。わたしたちもまた、信仰に基づき、平和と正義を求める姿勢を貫いていくべきです。
Ⅲ トランスジェンダー競技者の排除と多様性の尊重
トランプ米大統領は、トランスジェンダー女性の女子競技への参加を禁止する大統領令に署名しました。これにより、出生時は男性でありながら女性を自認するアスリートたちは、女子スポーツへの参加を全面的に排除されることとなりました。さらに、トランプ氏は国際オリンピック委員会(IOC)に対し、2028年ロサンゼルス五輪でも同様の措置を取るよう圧力をかけています。この方針は、スポーツ界の公平性をめぐる議論を超え、トランスジェンダーの人々の人権と尊厳に対する重大な挑戦を意味しています。
すでに全米大学体育協会はこの大統領令に沿った新規定を発表し、世界陸連のセバスチャン・コー会長もトランプ氏の考えを支持する意向を示しています。こうした動きが広がれば、他国のスポーツ団体にも影響を及ぼし、トランスジェンダーのアスリートたちの競技の場が大幅に制限される可能性があります。事実、これまでもトランスジェンダー選手の参加はたびたび論争の的となってきました。たとえば、2021年の東京五輪では、女性を自認するニュージーランドの重量挙げ選手が史上初めてオリンピックに出場しましたが、これに対して一部の関係者や観客から反発が起こりました。
問題は、トランプ氏の政策が単なるスポーツの規制にとどまらず、トランスジェンダーの人々全体に対する抑圧的なメッセージとなっていることです。彼は、「連邦政府が認める性別は男性と女性だけだ」と明言し、トランスジェンダーという存在そのものを否定する姿勢を示しています。この考え方は、トランスジェンダーの人々が自分らしく生きる権利を奪い、社会的な孤立を深める危険性を孕んでいます。トランスジェンダーの若者の自殺率が高いことは広く知られていますが、こうした政策は彼らの苦しみをさらに増大させることにつながるのではないでしょうか。
スポーツ界では、多様な性を認めつつ、競技の公平性を保つことが課題となっています。確かに、身体的な優位性が競技結果に影響を与える可能性を考慮する必要はあります。しかし、そのためにトランスジェンダーの選手を一律に排除するのは、スポーツの本質である「すべての人に開かれた競争の場」という理念を否定するものです。IOCは「性の多様性、身体的外見、トランスジェンダーであることを理由に競技から排除されるべきではない」との指針を示していますが、トランプ政権の圧力により、この原則が損なわれる危機に直面しています。
聖書は、「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように」(ヨハネによる福音書13:34)と語ります。わたしたちの信仰は、すべての人が神によって創造され、尊厳を持って生きる権利があることを教えています。社会が一部の人々を排除し、存在を否定する方向へと進むとき、わたしたちはその流れに抗い、包摂と理解を求める声を上げるべきではないでしょうか。
わたしたちは、性の多様性を尊重し、トランスジェンダーの人々が安心して生きられる社会を築くために何ができるかを考えなければなりません。まず、正確な知識を持ち、誤った情報や偏見に基づいた主張に惑わされないことが重要です。次に、政策決定において人権を尊重する立場を明確にし、政府やスポーツ団体に対して包摂的なルール作りを求めることも大切です。そして、わたしたち一人ひとりが、トランスジェンダーの人々と連帯し、彼らが社会の中で居場所を持てるよう支援していくことが求められています。
トランプ政権の方針が世界に影響を与える中で、わたしたちはキリスト教的価値観に立ち返り、「互いに愛し合う」ことの意味を問い直す必要があります。誰もが尊厳を持ち、ありのままに生きることができる社会を目指し、わたしたち自身がその実現のために行動していかなければなりません。
Ⅳ 政府備蓄米の放出と食料安全保障の課題
政府は、価格高騰が続くコメ市場の安定化を目的として、備蓄米の放出を決定しました。これは、災害や凶作時の緊急対応を目的とした備蓄米を、流通の円滑化のために活用する初の試みです。長年低迷していた米価が急騰し、家計を圧迫する状況が続いているため、多くの消費者はこの決定を歓迎しています。しかし、問題の本質は「コメが足りない」ことではなく、「流通が滞っている」ことにあります。今回の措置は一時的な緩和策にすぎず、食料供給の安定を守るためには、より抜本的な対策が求められています。
現在、米価の高騰は異常なレベルに達しています。総務省の小売物価統計調査によれば、東京都区部のコシヒカリ5キロの平均価格は、1月時点で4185円と、前年同月比で71%の上昇を記録しました。全国的に見ても、コメ類の物価上昇率は他の食料品を大きく上回っており、多くの家庭の食卓に影響を与えています。背景には、昨夏の猛暑による精米の流通減少や、訪日外国人の増加による需要の拡大があるとされています。しかし、それだけではこの異常な価格上昇を説明するには不十分です。
特に問題視されているのは、投機筋による買い占めと、流通業者の集荷抑制です。政府は「在庫は十分にある」と主張し続けましたが、店頭では品薄状態が続き、消費者は高値で購入せざるを得ない状況に陥っています。2024年産のコメの生産量は前年を上回っているにもかかわらず、全国農業協同組合連合会(JA全農)などの主要流通業者の集荷量は減少しました。これは、流通業者が価格上昇を見越して供給を抑えた可能性を示唆しています。
今回、政府は最大21万トンの備蓄米を市場に放出することで、価格の沈静化を図る方針です。しかし、この措置がどの程度の効果を持つかは未知数です。すでに投機的な動きを見せている市場に対し、一時的な供給増だけで十分な価格安定が実現するかは疑問が残ります。むしろ、政府が流通の不透明な部分にメスを入れ、買い占めや供給調整の実態を徹底的に調査することが先決ではないでしょうか。
また、日本の農業全体が直面する構造的な問題も無視できません。農家の高齢化と後継者不足が進み、国内のコメ生産は将来的に持続可能性を失いつつあります。価格が高騰しても、農家に適正な利益が還元されるわけではなく、流通の支配構造によって利益が偏在している現状も問題です。政府は、短期的な価格調整にとどまらず、農業の再生に向けた抜本的な対策を講じるべきです。具体的には、持続可能な農業経営の支援、流通の透明化、農業従事者の待遇改善など、多方面にわたる改革が求められます。
聖書は、「飢えている人にパンをお与えになる」(詩編146:7)と語ります。食料は人間の最も基本的な権利であり、それが不当に操作されることはあってはなりません。コメは日本の主食であり、多くの人々の生活の基盤です。今、わたしたちが直面しているのは、単なる価格変動の問題ではなく、食料安全保障そのものの危機であることを認識しなければなりません。
わたしたち市民もまた、食料問題に対して主体的に関わることが求められています。適正な価格でコメを購入すること、農業の現状について学ぶこと、そして食料供給の安定を守るために政策を監視し、声を上げることが必要です。教会としても、貧困層への食料支援活動を強化し、すべての人が食の安心を享受できる社会を目指すべきではないでしょうか。
政府の今回の措置は、短期的な対策として一定の効果を持つかもしれません。しかし、根本的な問題を解決するには、より長期的な視野に立ち、農業と流通のあり方を見直す必要があります。わたしたちもまた、日々の食卓に向き合いながら、食の公正性と持続可能性について考え、行動することが求められています。
結びに
本日の教会時論を通じて、わたしたちは社会の変化を見つめ、信仰者としての責務について考えてきました。トランプ政権の強権的な統治がもたらす民主主義の危機、核兵器禁止条約への不参加が示す日本政府の消極的姿勢、トランスジェンダー競技者の排除に見られる社会の包摂性の問題、そして食料価格の高騰と流通の不透明性――これらの問題は、それぞれ異なる側面を持ちながらも、共通して「公正と正義」を問うものです。
聖書は、「わたしの目にあなたは価高く、貴く わたしはあなたを愛し」(イザヤ書43:4)と語ります。これは、すべての人が神の目において尊厳を持ち、等しく愛される存在であることを示しています。しかし、現代社会では、経済的利益や政治的思惑のもとに、人間の尊厳が軽視され、抑圧される現実が存在します。わたしたちがこれらの問題に目を向け、声を上げることは、信仰に生きる者としての当然の務めではないでしょうか。
米国の民主主義が試練に直面する中で、日本はどのような立場を取るべきでしょうか。国際社会において、日本は平和国家としての役割を果たす責任があります。そのためには、核軍縮への積極的な関与や、人権と多様性を尊重する政策を明確に打ち出すことが求められます。また、国内においても、社会の分断を防ぎ、公平な制度を維持するために、市民一人ひとりの意識と行動が重要になります。
食の安全についても、これは単なる市場の問題ではなく、わたしたちの生存権に関わる重大な課題です。農業の未来を考え、公正な流通を求めることは、すべての人が豊かに生きるための基本的な条件を整えることにつながります。わたしたちは、単に消費者として不満を述べるのではなく、持続可能な食料供給のために何ができるのかを考え、具体的な行動を起こす必要があります。
わたしたちの信仰は、単なる観念ではなく、実践によって証されるものです。社会の不正義に目を背けることなく、隣人の痛みに寄り添い、平和と公正を求めて行動することこそ、キリストに従う道ではないでしょうか。今、わたしたちにできることは何か――その問いを胸に刻みながら、日々の生活の中で実践を続けていきましょう。
「神に従い正義を行うことは いけにえをささげるよりも主に喜ばれる」(箴言21:3)。この御言葉を胸に、わたしたち一人ひとりが社会の変革に寄与する存在となることを願います。
▼ 説教——赦しと愛に生きる
【教会暦】
顕現後第7主日(2025年2月23日)
【聖書箇所】
旧約日課:創世記 45章3-11、21-28節
使徒書:コリントの信徒への手紙一 15章35-38、42-50節
福音書:ルカによる福音書 6章27-38節
序 赦しと愛の力
本日の聖書箇所には、一貫したテーマが流れています。それは「赦し」と「愛」という、わたしたちの信仰生活の中心を成すものです。創世記45章には、兄たちに裏切られ、エジプトに売られたヨセフが、ついに兄弟たちと再会し、自らの身分を明かす場面が描かれています。長年の苦しみや悲しみを抱えていたはずのヨセフが、驚くべきことに兄たちを赦し、「神が命を救うために私をあなたたちより先に遣わされたのです」(創世記45:5)と言います。彼は自らの人生の苦難を、神の摂理の中に位置づけ、憎しみではなく赦しを選んだのです。
一方、ルカによる福音書6章では、イエスが「敵を愛しなさい」「自分を憎む者に善を行いなさい」(ルカ6:27)と語られます。これは、人間の自然な感情や世の価値観に反するように思えます。しかし、神の愛は、そのような限界を超えたものです。わたしたちは、自分に好意的な人を愛することはできますが、敵を愛することは容易ではありません。にもかかわらず、イエスは「父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」(ルカ6:36)と教えられます。
さらに、コリントの信徒への手紙一15章では、パウロが復活の希望を語ります。彼は、種が地に蒔かれなければ芽を出さないように、「朽ちるものが朽ちないものに、卑しいものが輝かしいものに、弱いものが力強いものに変えられる」(1コリント15:42-43)と説きます。これは、赦しと愛が単なる道徳的な教えではなく、神の力による変革であることを示しています。
本日の聖書箇所は、わたしたちにこう問いかけます。わたしたちは、赦しと愛の力を信じ、それを生きることができるでしょうか。世の中は、憎しみや報復、分断に満ちています。しかし、神の国の価値観は、それとは全く異なるものです。ヨセフの赦し、イエスの愛の教え、そしてパウロが語る復活の希望——これらを通して、わたしたちはどのように生きるべきかを探っていきたいと思います。
Ⅰ ヨセフの赦し——神の摂理の中で生きる
創世記45章は、旧約聖書の中でも最も感動的な再会の場面を描いています。長い年月を経て、エジプトの宰相となったヨセフが、かつて彼を奴隷として売り飛ばした兄弟たちと対面する場面です。ヨセフは、自らの正体を明かし、兄たちは恐れおののきます。彼らは、自分たちの過去の罪が裁かれるのではないかと怯えました。しかし、ヨセフは驚くべき言葉を口にします。「恐れることはありません。神が命を救うために、私をあなたたちより先に遣わされたのです」(創世記45:5)。
ヨセフの言葉は、単なる兄弟愛の表現ではありません。それは、神の摂理に対する深い理解からくるものです。彼は、自らの苦難を恨むのではなく、それを神の大いなる計画の一部として受け入れました。これは、わたしたちが日々の試練や苦しみをどのように受け止めるかという問題にもつながります。
旧約聖書において、神の摂理(プロビデンス)は、しばしば人間の理解を超えた形で働きます。ヨブ記では、ヨブが自らの苦しみの理由を求めますが、神の答えは「お前は天地創造の時そこにいたか」(ヨブ記38:4)というものでした。人間の視点では不条理に見える出来事も、神の計画の中では意味を持つのです。ヨセフは、自らの人生を振り返り、兄たちの裏切りさえも神の意志の一部であったと悟りました。
新約聖書でも、神の摂理は重要なテーマです。ローマの信徒への手紙8章28節には、「神を愛する人々、すなわち神の御計画に従って召された人々には、万事が益となるように共に働くということをわたしたちは知っています」とあります。ヨセフの人生はまさにこの真理を体現しています。彼は人間的な復讐ではなく、神の導きを信じて赦しを選びました。
この物語は、わたしたちの現代の生き方にも深い示唆を与えます。わたしたちはしばしば、人間関係の中で傷つき、怒りや憎しみを抱えることがあります。しかし、神の視点から見ると、その出来事はわたしたちを成長させ、より深い信仰へと導くためのものかもしれません。ヨセフのように、わたしたちもまた、自分を傷つけた人々を赦し、神の計画を信じることができるでしょうか。
ヨセフの言葉は、わたしたちに神の摂理の中で生きることの意味を教えています。人間的な視点ではなく、神の視点から物事を見ること——それこそが、真の赦しと和解への道なのです。
Ⅱ 敵を愛するという挑戦——イエスの教えの核心
ルカによる福音書6章の「平地の説教」は、イエスの教えの中でも特に挑戦的な部分を含んでいます。その中で、「敵を愛しなさい。自分を憎む者に善を行いなさい」(ルカ6:27)という言葉が語られています。この命令は、単なる道徳的教えではなく、神の愛の本質を示しています。しかし、わたしたちの日常の現実において、敵を愛することは決して容易ではありません。
1 「敵を愛する」という逆説的な教え
イエスの時代、ユダヤ社会では「隣人を愛し、敵を憎め」という考え方が広く受け入れられていました(マタイ5:43参照)。これは、旧約聖書の律法の一部に基づくものですが、イエスはそれを超えて「敵を愛しなさい」と命じられました。これは単なる博愛主義ではなく、神の愛の本質を示すものです。
旧約聖書にも、敵に対する憐れみの教えは存在します。箴言25章21-22節には、「あなたの敵が飢えているならパンを与え、渇いているなら水を飲ませよ」と記されています。しかし、イエスの教えはさらに一歩進みます。単に敵を助けるだけではなく、積極的に愛することを求めているのです。
2 神の愛の模範
イエスが「敵を愛しなさい」と語られた背景には、神の愛のあり方があります。「いと高き方(神)は、恩を知らない者にも悪人にも情け深いからである」(ルカ6:35)。神の愛は、善人だけに向けられるものではなく、罪人にも注がれます。
これは、イエス自身の生涯においても明らかです。イエスは十字架上で、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)と祈られました。これは、人間の常識を超えた愛の姿です。わたしたちはしばしば、敵を裁き、報復を求める傾向にあります。しかし、神の愛は、そのような人間の限界を超え、すべての人を包み込むものなのです。
3 「敵を愛する」ことの実践
では、わたしたちはどのようにこの教えを実践できるのでしょうか。現実には、わたしたちを傷つけた人を赦すことさえ難しいと感じることがあります。しかし、イエスの教えは、単なる感情の問題ではなく、具体的な行動として示されています。「打つ者にもう一方の頬を向けなさい」「奪う者にはさらに与えなさい」(ルカ6:29-30)。これは、単に自分を犠牲にすることではなく、悪に対して善をもって応じるという神の国の価値観を示すものです。
ローマの信徒への手紙12章20-21節では、「敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ」と勧められています。これは、悪を悪で返すのではなく、善をもって勝つというキリスト者の生き方を示しています。わたしたちが敵を愛するとき、その行為は相手だけでなく、自分自身をも解放し、神の愛の器としての役割を果たすことになります。
4 現代社会における応用
現代社会は分断と対立に満ちています。政治的な意見の違い、人種や文化の違い、経済的格差——これらが敵意を生み出す原因となることがあります。イエスの教えは、こうした状況に対しても適用されるべきものです。わたしたちは、違いを超えて相手を理解し、和解へと向かう姿勢を持つことが求められています。
また、個人レベルにおいても、わたしたちはしばしば人間関係の中で傷つき、恨みや怒りを抱えることがあります。しかし、イエスの教えに従うならば、わたしたちは憎しみではなく愛をもって応じる道を選ぶことができます。それは簡単なことではありませんが、神の恵みによって可能となるのです。
「敵を愛しなさい」というイエスの言葉は、単なる理想論ではありません。それは、神の愛をこの世界に示すための生き方なのです。わたしたちは、この教えを実践することで、神の国の価値観を現実のものとすることができます。わたしたちはどこまでこの愛を生きることができるでしょうか。
Ⅲ 復活の希望——新しいいのちへの変容
コリントの信徒への手紙一15章35-38節、42-50節は、復活に関する重要な教えを含んでいます。パウロはここで、復活の体についての疑問に答えながら、神の力による「変容」の概念を示しています。「死人はどのように復活するのか。どのような体で来るのか」(1コリント15:35)という問いに対して、彼は種の比喩を用いて説明します。「あなたが蒔くものは、死ななければ生き返らない」(15:36)。つまり、現在の朽ちる体は一度死を迎え、神によって新しく創造されるのです。
1 「蒔かれるもの」と「甦るもの」
パウロは、復活の体について語るとき、「蒔かれるもの」と「甦るもの」とを対比します。「朽ちるものが蒔かれ、朽ちないものに甦る。卑しいものが蒔かれ、輝かしいものに甦る。弱いものが蒔かれ、力強いものに甦る」(15:42-43)。これは、単なる肉体的な再生ではなく、神の力による根本的な変容を意味します。
旧約聖書においても、死と復活に関する希望は語られてきました。ダニエル書12章2節には、「多くの者が塵の中から目覚め、ある者は永遠の命に、ある者は永遠の屈辱に至る」と記されています。神の国における復活は、単なる肉体の延長ではなく、新しい存在へと変えられることを意味しています。
この考え方は、イエス・キリストの復活そのものにおいて最も明確に示されました。イエスは、十字架で死を迎えられましたが、三日目に新しいいのちをもって復活されました。その姿は、かつての肉体の延長ではなく、神の栄光に満ちた存在でした。ルカ24章では、復活したイエスがエマオ途上の弟子たちに現れますが、最初はその姿がわからず、後になってようやく気づくという描写があります(ルカ24:15-31)。これは、復活の体が、わたしたちの知る現実を超えたものであることを示唆しています。
2 天に属する者として生きる
パウロは、アダムとキリストを対比しながら、「最初の人アダムは命のある生き物となったが、最後のアダムは命を与える霊となった」(1コリント15:45)と語ります。これは、人間の本質的な変化を意味しています。わたしたちはアダムに属する者として生まれますが、キリストによって新しい存在へと変えられるのです。「わたしたちは土で造られた者の姿を持っているように、天に属する者の姿をも持つことになります」(15:49)。これは、神の国の完成において、わたしたちが新しい霊的な体を持つことを示しています。
3 復活の希望と日常生活
では、この復活の希望は、わたしたちの今の生き方にどのような影響を与えるのでしょうか。パウロは、復活が単なる未来の出来事ではなく、現在の生き方を変えるものであることを強調します。「あなたがたは自分の体を、神からいただいた聖霊が宿っている神殿であることを知らないのですか」(1コリント6:19)。わたしたちはすでに、神の新しい創造の一部として生かされているのです。
また、復活の希望は、わたしたちに「今ここでの生き方」を変える力を与えます。もしわたしたちの人生がこの世限りのものならば、富や快楽を追い求める生き方に価値があるかもしれません。しかし、神の国の約束を信じるならば、わたしたちは一時的なものに執着するのではなく、永遠に価値あるものに目を向けるべきなのです。
4 現代における復活の証し
復活の希望は、単に死後の約束ではなく、今を生きる力となるものです。わたしたちは、この世の困難や試練の中で、希望を持ち続けることができます。初代教会の信徒たちは、迫害の中でも復活の希望を持ち続けました。彼らにとって、復活は単なる理論ではなく、生きる力そのものでした。
現代においても、わたしたちはさまざまな困難に直面します。しかし、復活の希望に生きるならば、どのような状況の中でも前進することができます。わたしたちはこの希望を証しし、神の国の完成に向かって歩んでいくのです。
復活の希望は、わたしたちを新しいいのちへと変える力を持っています。わたしたちは、この希望をもって生きることで、神の国の価値観を体現し、証しする者となるのです。
Ⅳ 惜しみなく与える愛——神の恵みに生きる
ルカによる福音書6章27-38節の中で、イエスは「敵を愛する」ことに続いて、「求める者には与えなさい」(6:30)、「見返りを求めずに貸しなさい」(6:35)、「裁いてはいけない」(6:37)と語られます。これらの言葉は、単なる道徳的勧めではなく、神の恵みの本質を示すものです。イエスは、わたしたちが神の愛に生かされる者として、惜しみなく与えることを求めています。
1 神の愛の無償性
わたしたち人間の愛は、多くの場合、条件付きです。何かをしてくれた人には感謝し、親切にしてくれた人には応えます。しかし、神の愛はそれを超えたものです。「いと高き方(神)は、恩を知らない者にも悪人にも情け深い」(ルカ6:35)とあるように、神はその恵みをすべての人に与えられます。
旧約聖書では、神の恵みは契約の中で示されます。イスラエルの民はしばしば神に背きましたが、神は「あなたの主、神は憐れみ深く、あなたを見捨てたり、滅ぼしたり、あなたの先祖と結ばれた契約を忘れたりされることはない」(申命記4:31)と約束されました。この無償の愛こそが、イエスの教えの基盤なのです。
2 人間の持つ「与えることへの恐れ」
わたしたちはしばしば「与えること」に慎重になります。時間、労力、財産、愛——それらを惜しみなく与えることは、損失のように感じられることがあります。特に、現代社会では「見返り」を前提とする価値観が強く、「与えることは損」と考えがちです。
しかし、イエスは「量るのはあなたがたの量る量りで、あなたがたも量り返される」(ルカ6:38)と言われました。これは、単に「善行をすれば報いがある」という意味ではなく、神の愛の法則を示すものです。わたしたちが惜しみなく与えるとき、神はそれを豊かに満たしてくださるのです。
使徒パウロも、「与える人は惜しみなく与えなさい」(ローマ12:8)と述べています。神の恵みを受ける者として、わたしたちは惜しみなく与える生き方へと招かれています。
3 具体的な「与える」実践
では、わたしたちはどのように「与える」ことを実践できるのでしょうか。
(1) 物質的な助けを必要とする人々に与える
現代社会には、貧困や孤独に苦しむ人々がいます。わたしたちは、自分に与えられたものを分かち合い、支援することで、神の愛を具体的に示すことができます。
(2) 時間と労力を惜しまずに与える
単なる金銭的な支援だけでなく、時間や労力を誰かのために使うことも、神の愛の現れです。訪問や傾聴、励ましの言葉は、人の心を変える大きな力を持っています。
(3) 許しを与える
「裁くな、そうすれば、あなたがたも裁かれない」(ルカ6:37)という言葉は、他者を無条件に受け入れることの重要性を示しています。人間関係において、わたしたちはしばしば相手の過ちを厳しく裁いてしまいます。しかし、神の愛に生かされる者として、わたしたちは赦しを選び取るべきなのです。
4 与えることがもたらす豊かさ
世の価値観では、所有することが豊かさとされています。しかし、神の国の価値観では、「与えること」が豊かさなのです。「受けるよりも与える方が幸いである」(使徒言行録20:35)という言葉は、信仰生活の真髄を示しています。
惜しみなく与えることは、単に他者のためではなく、わたしたち自身の霊的な成長にもつながります。愛すること、仕えること、赦すこと——これらはわたしたちを神の国の民として成長させる道なのです。
神の愛は、わたしたちに無条件に注がれています。だからこそ、わたしたちもまた、惜しみなく愛を与え、恵みに生きる者となるよう招かれています。
Ⅴ 神の愛に生きる——赦しと恵みの応答
本日の聖書箇所に共通するテーマは、「神の愛に生きる」ということです。ヨセフの赦し、イエスの「敵を愛しなさい」という命令、そしてパウロが語る復活の希望——これらはすべて、わたしたちがどのように神の愛に応答するべきかを示しています。神の愛は、わたしたちに赦しをもたらし、惜しみなく与えることを促し、最終的には新しいいのちへと変えていきます。
1 赦しは神の愛の証し
ヨセフの物語は、復讐ではなく赦しを選ぶことの力を示しています。彼は「神が命を救うために、私をあなたたちより先に遣わされたのです」(創世記45:5)と言いました。この言葉には、神の摂理を受け入れる信仰と、兄弟を赦す愛が表れています。わたしたちはしばしば、過去の傷や人間関係のもつれの中で、赦すことの難しさを感じます。しかし、赦しは神の愛の具体的な証しなのです。
イエスも、「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」(ルカ6:36)と語られました。これは、神の愛に生かされる者として、わたしたちもまた他者を赦し、受け入れることを求められていることを意味します。赦しは、単なる感情ではなく、神の愛に対する応答としての選択なのです。
2 恵みによって生きる
パウロが語る「復活の希望」は、わたしたちの生き方を変える力を持っています。「朽ちるものが朽ちないものに、卑しいものが輝かしいものに変えられる」(1コリント15:42-43)。これは、単なる未来の出来事ではなく、わたしたちが今、神の恵みの中で生きることを意味しています。
わたしたちが神の愛を受けたならば、それを惜しみなく分かち合うことが求められます。「量るのはあなたがたの量る量りで、あなたがたも量り返される」(ルカ6:38)。これは、わたしたちの生き方が、神の祝福をどのように受け止めるかに関わることを示しています。わたしたちは、神の恵みを「受ける」だけでなく、「流れ出させる」存在となるべきなのです。
3 神の愛を証しする生き方
では、わたしたちはどのように「神の愛に生きる」ことができるでしょうか。それは、次の三つの姿勢を持つことから始まります。
(1) 赦しを選ぶこと
赦しは、わたしたちの心を解放します。憎しみや怒りを抱えることは、自分自身を縛ることになります。神の愛に応答するならば、わたしたちは憎しみの連鎖を断ち切り、和解への道を選ぶことができます。
(2) 惜しみなく与えること
神の愛は、すべての人に開かれています。だからこそ、わたしたちは自分の持っているもの——時間、才能、財産、愛——を惜しみなく分かち合うことが求められます。それは決して損失ではなく、神の国の豊かさに生きることなのです。
(3) 希望を持って生きること
キリストの復活は、死を超える希望を示しました。わたしたちは、人生の困難や試練の中でも、神の約束を信じ、希望を持って歩むことができます。その希望こそが、わたしたちを日々新しくする力となるのです。
神の愛は、わたしたちに赦しを与え、惜しみなく与える心を育み、復活の希望へと導きます。わたしたちは、この愛に生かされる者として、どのように応答していくべきでしょうか。
「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」(ルカ6:36)。この言葉を胸に、神の愛を証しする歩みを続けていきたいと思います。
おわりに
本日の聖書箇所は、「赦しと愛」というテーマを中心に、わたしたちの生き方を問うものでした。創世記におけるヨセフの赦しは、神の摂理を信じることの大切さを示し、ルカによる福音書におけるイエスの「敵を愛しなさい」という教えは、わたしたちにとっての大きな挑戦です。さらに、パウロが語る復活の希望は、わたしたちが神の愛に生かされ、新しい命へと変えられることを示唆しています。
現代社会に目を向けると、分断や対立、報復の連鎖が絶えません。国際政治においても、力による支配が横行し、弱い立場の人々が犠牲となる状況が続いています。日本においても、核軍縮への取り組みの停滞、食料安全保障の危機、多様性をめぐる社会の葛藤など、多くの課題が山積しています。こうした中で、わたしたちはどのように信仰を実践すべきでしょうか。
まず、正しい情報に触れ、社会の動向を知ることが重要です。新聞や公正な報道を通じて事実を学び、感情的な反応ではなく、冷静な視点で物事を捉えることが求められます。また、わたしたちが信じる価値観を政策に反映させるために、地方議会や国会議員への働きかけを行うことも必要です。社会の変革は、一人ひとりの意識と行動の積み重ねによってこそ実現されるものです。
さらに、わたしたちの日常生活においても、「赦しと愛」を実践することが求められます。わたしたちは、憎しみや対立の中に生きるのではなく、相手を受け入れ、歩み寄る道を選ぶことができます。たとえば、家庭や職場、地域社会での関係において、相手を理解し、対話を大切にする姿勢を持つことが、その第一歩となるでしょう。
「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」(ルカ6:36)。この御言葉のように、わたしたちは神の愛を受けて生かされている者として、その愛を分かち合う使命を担っています。
本日の説教を通じて、わたしたちが「赦しと愛」に生きることの意味を深く考え、実践へとつなげていくことができるよう願っています。
祈りましょう
慈しみ深い父なる神よ、
本日、あなたの御言葉に触れる機会を与えてくださり、感謝いたします。あなたの愛と赦しの中で生かされているわたしたちが、憎しみや対立ではなく、平和と和解の道を選ぶことができますように。
世界では今も、戦争や暴力、貧困や差別が人々を苦しめています。特に、ウクライナにおける停戦交渉の行方、アメリカの民主主義の試練、日本の核軍縮への消極的な態度、そして食料安全保障の問題に直面するすべての人々のために祈ります。あなたの正義がこの世界に行き渡り、すべての人が尊厳を持って生きることができる社会を築くことができますように。
また、わたしたち一人ひとりが、正しい知識を得て社会の問題に関心を持ち、議員や政策決定者に対して、公正で人道的な判断を求める声を上げることができますように。あなたの御心に適う世界を実現するために、勇気と知恵を与えてください。
わたしたちの心を開き、愛と赦しを実践する力をお与えください。職場や家庭、地域社会において、対立ではなく理解を、分断ではなく一致をもたらす者となることができますように。
主イエス・キリストによってお願いいたします。
アーメン。