見過ごせない現実と、信仰からの問いかけ
今の日本を見つめると、長いあいだ変わらぬ政治のかたちと、それに伴う新自由主義的な政策が、社会の隅々にまで深く根を下ろしているのを感じます。その結果、豊かさが一部に集中し、生活の不安や孤立感を抱える方が後を絶ちません。特に声を上げにくい立場にある人たちの苦しみは、表には出にくい分、いっそう深く、重く積み重なっているように思えます。それでも、わたしたちは希望を捨てません。信仰は、ただ現実を嘆くためのものではないからです。むしろ、人間の限界や弱さを知りながら、それでも変わらぬ神の愛と正義を信じる――その確かさに、私たちは支えられています。
憲法第9条と、平和を生きる勇気
日本国憲法の第9条は、戦争の悲惨な記憶を受けとめ、「武力ではなく対話によって平和を築こう」と決意した国民の思いを、かたちにしたものです。この条文が語る理念は、国際社会の中でも特別な価値をもつ、貴い約束だと、わたしたちは受け止めています。もちろん、今の世界は決して平穏ではありません。多くの国で安全保障への関心が高まり、「軍備強化」という言葉が当たり前のように語られています。しかし本当にそれだけが、わたしたちの選ぶべき道なのでしょうか。
イエスさまはこう教えてくださいました――
「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ5:9)
争わない選択をする勇気、対話をあきらめない忍耐。それこそが、神に呼ばれた民としての責任であり、日本が示せるもう一つの道なのではないでしょうか。
格差と向き合う信仰――尊厳ある暮らしのために
今の日本では、働いても報われないという声をよく聞きます。非正規雇用や孤立した老後の不安、都市と地方のあいだに広がる格差……。それはただの数字ではなく、日々を生きる人たちの痛みの現れです。
イエスさまは言われました――
「飢えていたとき、あなたたちは食べ物を与えた」(マタイ25:35)
目の前の苦しみに気づかぬふりをすることは、キリスト者として見過ごせない態度です。富や機会は、神がすべての人に与えてくださった恵みであるならば、それを分かち合い、支え合う社会を築くことこそ、信仰に生きる道だと思うのです。
地球と共に生きる――神の創造を守る責任
自然の恵みの中で生きているわたしたちは、地球を「自分たちのもの」と思い込んでしまいがちです。でも、聖書はこう語ります――「地とそこに満ちるもの、世界とその住人は主のもの」(詩編24:1)
わたしたちはこの世界を預かって生きている者であり、守り手としての責任があります。気候変動や環境破壊のただ中で、信仰者としてできることは何か。たとえば、使い捨てを減らすこと、再生可能エネルギーに目を向けること。小さな一歩かもしれませんが、それが神に応える祈りのかたちになっていくと信じています。
若い世代が教えてくれる希望
いま、若い世代のなかに、平和・人権・環境といったテーマを自然に大切にする感性が育っています。ジェンダーの平等や、LGBTQ+の尊厳、多様性へのまなざし。これらはもう、一部の人だけの運動ではなく、社会全体の良心として根づき始めているように思います。
信仰は、人を枠にはめるものではなく、その人らしさを尊ぶものであるはずです。すべての人が神のかたちに創られた存在だという確信から、「自由と友愛」の教会は、多様な人と共に生きる道を選び続けます。
おわりに――命を選び続ける信仰
イエスさまは、こう語ってくださいました――「隣人を自分のように愛しなさい」(マタイ22:39)
平和を願うこと。貧しい人を見つめること。地球を大切にすること。そして、誰かを愛すること。そのすべてが、命の側に立つ行為です。
この国が、神の愛と正義に満たされ、誰もが神の子として大切にされる日を目指して――。
わたしたちは、祈り、そして歩み続けます。
自由と友愛の独立カトリック教会
大主教 佐藤俊介