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大斎節第一主日 二〇二五年三月九日 ▼ 教会時論「国際女性デー50年——意識と制度、変革のとき」他 ▼ 説教「荒野を越えて、御言葉に生きる」

 


教会時論・説教(2025年3月9日)

 わたしたちは日常を生きる中で、時代が刻む痛みや揺れ動く社会の声をどれほど受け止めているだろうか。世の中に溢れるニュースは、決してわたしたちと無縁ではない。

 社会の変容や事件の深層には、わたしたちが信じる価値や良心を絶えず揺さぶり、問い直す力がある。今週もまた、わたしたちは目を背けることができない出来事を目の当たりにした。ジェンダー平等への道のりがあまりにも遠い日本社会、原発事故裁判が明らかにした社会的責任の在り方、米国で高まる自由と民主主義への危機、兵庫県知事をめぐる倫理と権力の問題、そして大船渡で猛威を振るった山火事が示す自然との共生の難しさ―。

 これらの現実を冷静に見つめ、その奥にある問題の本質を掘り下げることが求められている。今こそわたしたちは、傍観者ではなく当事者として社会に向き合い、信仰と行動を通じて応答すべきである。今日の《教会時論》がその一助となることを願いつつ、論考を始めたい。

国際女性デー50年——意識と制度、変革のとき

 今年の3月8日、「国際女性デー」が国連で制定されてから半世紀を迎える。50年前、女性の権利向上と社会参加を世界規模で推進すべく立ち上がったこの記念日は、女性たちの長い闘いの歴史に光を当ててきた。

 しかし、日本に目を向けると、そこに映るのは道半ばどころか、いまだ進歩の兆しが見えにくい現状である。

 日本社会の男女平等度を示す指標は、昨年も国際的な比較で低迷を続け、146か国中118位にとどまった(世界経済フォーラム調査)。特に政治分野と経済分野における遅れが顕著だ。たとえば、昨年の衆院選で女性議員の割合は過去最高の15.7%となったが、有権者の半数が女性である事実を前に、この数字を「前進」と呼ぶのは憚られる。

 政党や政治の世界には今なお男性中心の意識が蔓延し、女性の参画を促す環境整備や、クオータ制の導入をはじめとする実効的な改革は後手に回ったままである。

 企業の現場もまた同様である。わずかではあるが女性役員の登用も見られるようになったが、1600社以上ある上場企業の中で女性CEOはわずか13名、全体の0.8%にすぎない。女性たちは出産や育児によるキャリアの途絶を余儀なくされ、非正規雇用に追いやられるケースも多い。さらには、男女の賃金格差は解消されるどころか、依然として根深く残っている。

 その背景には、男性が外で働き、女性は家庭を守るという旧弊が、見えない圧力として社会の深部に巣くっている現実がある。

 制度的に女性が不利益を被っている例として、夫婦同姓の原則が挙げられる。結婚時の改姓は95%以上が妻側であり、そこに潜むアイデンティティの喪失や煩雑な手続きといった負担は、圧倒的に女性へと押し付けられている。選択的夫婦別姓の導入が求められて久しいが、未だ制度は動かないままだ。

 パウロは『ローマの信徒への手紙』でこう述べている。

「主は、すべての人を分け隔てなく豊かにお恵みになる」(ローマ10:12)

 この教えを現代の視点で捉え直せば、性別による不合理な差別は神の望むところではなく、わたしたちは制度と意識の両面で変革を迫られていることになる。

 人権とは常に制度と人々の意識という二本の柱の上に立つ。わたしたちは、男女が真の意味で平等な社会を築くために、単なる理想論に留まらず、自らが行動する義務を負っている。50年という節目に問われているのは、日本社会そのもののあり方だ。改革を急ぎ、次の世代へ、性別で差別されることのない未来を手渡すことこそ、わたしたちの課題である。

原発事故「無罪」判決——わたしたちが背負う記憶と責任

 去る3月6日、福島第一原発事故をめぐる東京電力旧経営陣への刑事裁判は、最高裁の無罪確定で終止符が打たれた。司法としての結論は、予見不能との判断である。だが、司法の扉が閉じられたからといって、東電が負うべき社会的、道義的な責任が免除されることは決してない。

 2011年3月11日、巨大な津波が福島第一原発を襲い、史上最悪とも言われる原発事故が発生した。以降、日本社会は重く苦しい教訓を抱え続けている。

 事故を巡る裁判は、旧経営陣がその甚大な被害をもたらした津波を予測できたかが最大の焦点だった。だが最高裁は、「長期評価」の情報に信頼性が乏しく、事故の予見は困難だったとして、無罪の判断を下した。

 裁判としては一区切りとなる。しかし、問題はここからだ。

 人間が運営する組織には常に責任というものがある。その責任は法律の文言を超えたところにまで及び、とりわけ生命や安全に直結する原子力事業においては、なおさら厳しく問われる。

 事実、日本原電の東海第二原発は同じ長期評価を受け止め、津波対策に具体的措置を講じていた。ならば、東電にそれができなかったのか。経営陣の刑事責任が問われずとも、事故を防ぐことができなかった組織としての責任は決して薄れない。

 これは裁判の有罪・無罪を超え、倫理的・社会的な観点から問い続けなければならない問題である。

 聖書はこう語る。

「愛は隣人に悪を行いません。だから愛は律法を全うするのです。」(ローマ13:10)

 わたしたちの社会において、隣人への愛とは、安全と安心を最優先することだろう。予見が困難であることを理由に安全を後回しにしてよいわけはない。安全への配慮は単なる法的義務ではなく、人間の生命と尊厳を重んじる信仰的・倫理的な義務でもある。

 原発事故の被害者たちは、今なお生活再建の途上にある。司法の無罪判決は、彼らの苦難を消し去るものではない。わたしたちがこの裁判の結果に納得できないなら、それは司法の限界を超え、企業や政治、さらには社会全体の意識のあり方を根底から問わねばならないことを示している。

 我々に問われているのは、再び同じ過ちを繰り返さないための覚悟と実践である。司法の判断で区切りをつけて終わるのではなく、これを機に社会全体が原発の安全性、エネルギー政策のあり方、そして人間の命と生活を守るという根本の課題に向き合わなければならない。

 東電はもちろん、わたしたち市民一人ひとりが責任の主体として、真摯に、かつ誠実に、未来の世代に対して答える義務がある。

自由世界を揺るがすもの——トランプ演説に見る民主主義の危機

 トランプ米大統領が二期目の就任後初となる議会演説を行った。3月5日のことだ。高らかに語られたその言葉は、「アメリカは再び強くなった」という自己陶酔的な宣言に満ちていた。

 だが、その強気の姿勢とは裏腹に、演説の端々からは米国が自ら築き上げたはずの自由で民主的な国際秩序を、自らの手で揺るがしかねない危うさが垣間見えた。

 トランプ氏は演説で、自身の政権が短期間で大きな成果を上げたと誇示した。特に強調されたのが「アメリカ湾」という名称の提唱や、英語の公用語化といった排他的ナショナリズムに傾斜する政策である。

 また「関税を課す国には関税で応じる」と宣言し、露骨な保護主義への回帰を鮮明にした。自由貿易を柱とする国際協調の流れから逆行するこの動きは、世界経済に新たな不安をもたらしている。

 外交分野では、ウクライナ戦争終結への意欲を口にしたものの、その裏では前日までウクライナへの軍事支援停止をちらつかせ、和平の名のもとに圧力を加える姿勢を示した。

 自由と民主主義を標榜しながら、侵略したロシアに歩み寄る姿勢を隠さない彼の言動は、戦争で傷つく人々への裏切りに等しい。

 トランプ氏が称賛する実業家イーロン・マスク氏を要職に据え、途上国支援を担う対外援助機関の閉鎖を打ち出したこともまた、国際社会への貢献という米国本来の理想を手放す兆候にほかならない。

 聖書はこう語る。

「自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださいました。だからしっかりしなさい。二度と奴隷の軛に繋がれてはなりません」(ガラテヤ5:1)

 民主主義と自由は、わたしたちが守り抜かねばならない普遍の価値であり、その軛を再び負わされることがあってはならない。

 トランプ氏が掲げる「アメリカ第一主義」が、やがて国際社会において「力による支配」という軛を再びもたらす恐れを、わたしたちは鋭敏に察知すべきだ。

 国際秩序は一国の利益のためにのみ存在するものではない。そこにはすべての人間が尊重される公正な社会を目指す、普遍的な原則があるべきである。

 わたしたちキリスト者は、世界のあらゆる抑圧や不正に目を向け、共に苦しむ者に寄り添うことを教えられている。その使命を忘れることなく、わたしたちはトランプ政権が推し進める内向きの孤立主義や権威主義の流れに注意深く抗わねばならない。

 この演説をただ遠くの出来事とせず、自由と民主主義の危機をわたしたち自身の課題として心に刻むときである。

権力の驕り——兵庫県知事の資質を問う

 兵庫県の斎藤元彦知事をめぐる問題は、単なる地方の不祥事で済ませられるものではない。

 3月初旬、県議会の調査特別委員会(百条委)は、斎藤氏が元県民局長からの公益通報を受けたのち、その告発者本人を不当に懲戒処分にした可能性が高いと断じた。この告発者は昨夏、命を絶った。社会的な孤立と圧迫が彼の命を奪ったとの指摘がある。

 知事という権力の重みと、それに伴う責任の大きさを改めて考えさせられる事件だ。

 斎藤氏は問題の核心に真摯に向き合うどころか、百条委の結論を「一つの見解」と軽視し、「最終的には司法が判断する」として、道義的な責任を放棄した。

 議会は住民を代表し、知事を監視する役割を負っている。その議会が調査を尽くして出した結論を単なる「見解」と片づけることは、二元代表制の根幹を揺るがす態度であり、自治と民主主義への侮辱にも等しい。

 さらに問題なのは、斎藤氏が百条委で自身の倫理観を問われた際、「道義的責任が何なのかよくわからない」と発言したことである。知事の職にある者が、公私の区別や倫理を理解できないというのであれば、県政が正常に機能するはずもない。

 指導者の倫理感覚の欠如は行政の腐敗を招き、最終的にその被害を受けるのはいつも市民である。

 聖書はこう告げる。

「高ぶる心は破滅をもたらし、謙虚な霊は名誉をもたらす」(箴言18:12)

 斎藤氏に問われているのは、単に一連の疑惑に対する釈明ではない。その地位に伴う権力に謙虚さを持って向き合い、住民のために奉仕する者としての倫理観を再確認することだ。

 権力を私物化することは、社会の倫理を蝕み、公平性を失わせる。兵庫県民は、この問題を決して看過してはならない。

 公益通報者が報復を恐れず安心して声を上げられる環境を整備することも急務である。組織の透明性は社会正義を実現するための不可欠な条件であり、それが守られなければ、行政そのものが不信に包まれる。

 今回の事件をきっかけに、県庁内部の仕組みを再構築する必要があるだろう。

 わたしたちは、社会の問題に目を背けることなく、権力を持つ者の責任を厳しく問わねばならない。沈黙は社会を劣化させる共犯に等しい。

 斎藤知事が取るべき道は明白である。自らの行動を深く省みて、誠実に、県民に対し説明責任を果たすことだ。県政に信頼を取り戻すためにも、それは避けて通れない道である。

炎に奪われた森——大船渡山火事がわたしたちに問いかけるもの

 2月26日に岩手県大船渡市で発生した山林火災は、平成以降最大規模にまで広がった。炎は乾燥した空気と強風に乗り、わずか数日で約2900ヘクタールを焼き尽くし、住宅約80棟を巻き込み、多くの人々を避難生活へと追いやった。

 消火活動は険しい三陸の地形が妨げとなり難航し、自衛隊を含む全国から集まった消防隊員たちが連日奮闘を続けた。発生から8日を経てもなお、完全な鎮火には至らず、住民は先の見えない不安と闘っている。

 今回の火災は、わたしたちに二つの重要な問いを突きつけている。

 一つは、防災への意識と自然との向き合い方だ。この冬の大船渡市は観測史上最も乾燥していた。日常の延長線上で起きる小さな火の不始末が、これほどまでの災害を引き起こすという教訓をわたしたちは忘れてはならない。

 近年、日本だけでなく世界各地で頻発する山火事は、もはや他人事ではなく、自然環境への配慮や防災意識を日々の暮らしの中心に据える必要性を示している。

 もう一つは、地域社会における共助の精神だ。避難生活が長引く中、多くのボランティア団体や民間企業がいち早く被災者支援に乗り出した。「空飛ぶ捜索医療団ARROWS」もその一つで、医療支援だけでなく避難所の環境改善にも尽力し、住民の生活を支えた。

 このような草の根の支援活動こそ、苦難の中で人間同士の絆を確かめ合う重要な営みである。

 わたしたちキリスト者は、こうした共助の精神を信仰の原点とする。

「互いに重荷を担い合いなさい。そうすることでキリストの律法を満たすのです」(ガラテヤ6:2)

 この教えは、わたしたちが災害時にこそ身をもって実践すべきものだ。さらに、

「隣人を自分自身のように愛しなさい」(マタイ22:39)

 というキリストの言葉は、困難の中にある人々に手を差し伸べ、共に苦しみを分かち合う姿勢をわたしたちに求めている。

 森林は一度焼失すると、その再生には長い年月を要する。自然の豊かさを享受する者として、わたしたちは自然を支配するのではなく、自然と調和して生きることを神から求められている。

「主なる神は人をエデンの園に置いて、それを耕し、守らせた」(創世記2:15)

 との御言葉が示すように、自然との共生を深く心に刻むべき時である。

 大船渡の人々が、この災害から再び立ち上がるためには、社会全体の継続的な支援と関心が必要である。共助と信仰を胸に刻み、この苦難の中からより強い絆を紡いでいこうではないか。


説教—荒野を越えて、御言葉に生きる

はじめに

 大斎節の四十日間が始まる。この期間、教会は祈り、節制し、悔い改めに心を向ける。イエスが荒野で過ごされた四十日間を思い起こしながら、信仰の旅路を共に歩む時だ。

 大斎節は単なる宗教的な習慣ではない。それは、人が本当に生きるとはどういうことかを問い直す時だ。人は何によって生きるのか。何を頼りにし、何に希望を置くのか。

 わたしたちは日々、数えきれないほどの誘惑と戦いながら生きている。自分の力でどうにかしようとする心、富や権力に支配される心、神の愛を試そうとする心——それらすべてが、信仰を曇らせる。

 イエスは、荒野で悪魔の誘惑に立ち向かわれた。四十日間、何も食べず、極限まで飢えたとき、悪魔は「この石に、パンになれと言え」と囁いた。

 人が生きるためには何が必要なのか。それを問う悪魔の言葉に、イエスは「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出るすべての言葉によって生きる」と答えられた。

 大斎節のこの期間、わたしたちは何によって生きるのかを問われる。何を手放し、何を求めるのか。その問いに向き合うため、わたしたちも、イエスと共に荒野を歩むよう招かれている。

Ⅰ 誘惑に打ち勝つ力——御言葉に立つ信仰

 荒野の夜は冷え込む。昼間の灼熱が嘘のように、砂は急速に冷たくなり、星々が果てしない天に煌めいている。風が砂丘を削り、孤独と沈黙が支配するその地で、イエスはただひとり、御父と向き合っておられた。

「イエスは聖霊に満たされ、ヨルダン川から戻られると、神の霊に導かれて荒野に行き、そこで四十日間、悪魔から誘惑を受けられました。その間、何も食べず、四十日が過ぎると、ひどく空腹を覚えられました」(ルカ4:1-2)

 この四十日間は、ただの空腹や肉体的な忍耐ではない。それは、神に委ねる信仰を試される期間だった。

1 なぜ悪魔の誘惑は危険なのか

 悪魔は、最初にパンの誘惑をもってイエスに迫った。

「もし、お前が神の子なら、この石にパンになれと言ってみろ」(ルカ4:3)

 四十日間、何も食べていないイエスにとって、この誘いは極めて現実的である。人は食べなければ生きていけない。だが、ここで問われているのは単なる空腹ではなかった。

 この誘惑の本質は、「神の導きに頼らず、自分の力で満たせ」ということだった。

 わたしたちは、何かを求めるとき、神の導きを待つのではなく、自分の力で何とかしようとしてしまう。生活の安定、成功、人からの評価——それらを、自分で手に入れようとする。

 しかし、イエスは答えられた。

「聖書にはこう書いてある——『人はパンだけで生きるのではなく、神が語るすべての言葉によって生きる』」(ルカ4:4/申命記8:3)

 本当に生きるために必要なのは、目に見える糧ではない。神の言葉こそが、人を支える力なのだ。

2 誰に仕えるのか——富と権力の誘惑

 悪魔は次に、イエスを高い場所へと連れて行き、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。そして言った。

「この世のすべての権力と栄光を、お前にやろう。もし、私にひれ伏して礼拝するならば」(ルカ4:6-7)

 人は、成功や権力を求める生き物である。多くの人が、より良い地位、より多くの財産、より大きな影響力を得ようとする。

 しかし、それは本当に価値のあるものなのか?

 イエスは答えられた。

「聖書にはこう書いてある——『あなたの神である主を礼拝し、ただ主に仕えなさい』」(ルカ4:8/申命記6:13)

 わたしたちは、何を第一にするのかを常に問われている。神に従うのか。それとも、この世の価値観に従うのか。

  • 仕事の成功のために、大切なことを犠牲にしていないか?

  • 人からの評価を気にしすぎていないか?

  • 神よりも、目に見える富や権力を優先していないか?

 イエスは言われた。「ただ神に仕えよ」と。地上の栄光がどれほど魅力的に見えても、それが神から引き離すものであるならば、それは決して真の宝にはなり得ない。

3 神を試してはならない——信仰の本質

 悪魔は最後に、イエスをエルサレムの神殿の頂に立たせ、こう言った。

「ここから飛び降りてみろ。聖書にも『神は天使たちに命じて、お前を守らせる』と書いてあるではないか」(ルカ4:9-11/詩編91:11-12)

 これは、「神が本当にお前を愛しているなら、証明してみろ」という挑発だった。

 しかし、イエスは答えられた。

「聖書にはこうも書いてある——『あなたの神である主を試してはならない』」(ルカ4:12/申命記6:16)

 信仰とは、神の愛を「証明」することではない。神に従い、すべてを委ねることである。

 わたしたちは、人生の中で、「神は本当に私を守ってくださるのか?」と疑いたくなることがある。しかし、神の愛は、わたしたちが試すまでもなく、すでに注がれている。

4 御言葉に立つ信仰の力

 イエスは、悪魔の誘惑に対して、自分の力を誇ることもなく、議論することもなく、ただ御言葉によって答えられた。

「聖書にはこう書いてある」

 イエスの武器は、神の言葉だった。

  • 困難の中で、神の言葉を思い出しているか?

  • 自分の判断だけで進もうとしていないか?

  • 御言葉に立ち、信仰の道を選び取っているか?

 誘惑は、いつの時代にも、どんな人にも訪れる。しかし、それに打ち勝つ道は、御言葉の中にある。

 わたしたちは、この四十日間を、何に耳を傾けながら歩むのか。自分の欲望の声か、それとも、神の御言葉か。

「人はパンだけで生きるのではない。神の言葉によって生きる。」

 これは、大斎節を歩むわたしたちへの大切なメッセージである。御言葉に立つ者でありたい。

Ⅱ 大斎節の四十日間——わたしたちの霊的な荒野

 荒野は、ただの風景ではない。そこは人が試される場所であり、神と向き合う場である。乾いた空気が心の奥底まで染み渡るような静寂の中で、人は自らの限界を知る。思い悩み、立ち止まり、そして、どこへ向かうべきかを問われる。

 イエスは四十日間、荒野にとどまり、断食し、祈り、御父の御心に従う決意を新たにされた。

「イエスは聖霊に満たされ、ヨルダン川から戻られると、神の霊に導かれて荒野に行き、そこで四十日間、悪魔から誘惑を受けられました」(ルカ4:1-2)

 この四十日間は、単なる孤独の時間ではなかった。それは、神の沈黙の中で、信仰が試され、精錬されるときだった。

1 荒野とは何か——神の沈黙と対話の場

 荒野は、神の言葉を聞く場所である。だが、そこには人の思うような答えはすぐには与えられない。むしろ、沈黙が支配し、試練が襲う。

 モーセは、エジプトの王宮を逃れ、荒野で四十年を過ごした。その間、彼は羊を飼いながら、神の召しを待っていた。そして、神は燃える柴の中から語りかけられた(出エジプト記3:1-12)。

 エリヤは、絶望の果てに荒野へ逃れた。疲れ果て、ただ死を願うばかりだった。しかし、神は彼を荒野からホレブの山へと導き、静かなささやきの中で、再び使命を示された(列王記上19:11-13)。

 荒野は、苦しみと孤独の場であると同時に、神が語られる場でもある。

 わたしたちもまた、霊的な荒野を歩むときがある。

  • 祈っても答えがないように感じるとき

  • 自分の限界を痛感するとき

  • 神の沈黙が重くのしかかるとき

 しかし、そのような時こそ、神は最も深い仕方でわたしたちに語りかけておられるのではないだろうか。

「静まって、わたしこそ神であることを知れ」(詩編46:11)

2 何を手放し、何を得るのか——大斎節の目的

 大斎節は、単なる自己犠牲の期間ではない。それは、何を手放し、何を受け取るのかを問う時間である。

  • 自分の思い通りにしようとする心を手放し、神の導きに委ねる

  • 執着しているものを手放し、神が備えられる恵みを受け取る

  • 自分の弱さを認め、神の強さのうちに生きる

 大斎節の断食や節制は、単なる「食事を控えること」ではない。それは、何を第一とするのかを明確にすることである。

 イエスは言われた。

「あなたがたは、何を食べるか、何を飲むか、心配してはならない。あなたがたの父は、それが必要なことをご存じである。ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、それらのものは加えて与えられる」(ルカ12:29-31)

 わたしたちは何を求めるのか。神の国か、それともこの世のものか。その選択が、わたしたちの生き方を決定づける。

3 霊的な戦い——誘惑との戦いをどう生きるか

 イエスが荒野で試みを受けられたように、わたしたちもまた、人生の中でさまざまな誘惑に直面する。

  • 物質的な豊かさが、心の豊かさよりも大事だと思わされる誘惑

  • 他者の評価を気にしすぎて、神の目よりも人の目を恐れる誘惑

  • 祈りや御言葉を後回しにし、忙しさに流される誘惑

 これらの誘惑と戦うために、わたしたちはどうすればよいのか。

 イエスは、悪魔の誘惑に対して、ご自身の知恵や力で応じられたのではなかった。ただ、神の言葉をもって戦われた。

「聖書にはこう書いてある——『あなたの神である主を礼拝し、ただ主に仕えなさい』」(ルカ4:8/申命記6:13)

 御言葉こそが、試練の中でわたしたちを支える力となる。

4 野の先にある希望——神の招きに応える

 荒野の旅は、終わりではない。それは、新しい始まりへの準備である。

 イスラエルの民は、四十年間の荒野の旅を終え、約束の地へと導かれた。エリヤは、神の声を聞いた後、新たな使命へと向かった。イエスは、荒野での試練を経て、公の宣教を始められた。

 神は言われる。

「わたしは新しいことを行う。今、それが芽生えている。あなたたちは、それを悟らないのか」(イザヤ43:19)

 神のなさる新しいことを、わたしたちは悟ることができるだろうか。

 大斎節は、ただの儀式ではない。それは、神の新しい働きに心を開くための準備期間である。

 この四十日間、わたしたちは何を手放し、何を受け取るのか。

  • 自分の思い通りにする心を手放し、神の計画を受け取る

  • 神よりも大切にしているものを手放し、神との関係を深める

  • 恐れを手放し、神の愛のうちに生きる

 イエスが荒野を歩まれたように、わたしたちもまた、この四十日間を、神の御前に静まり、御言葉を聞き、祈りと共に歩んでいこう。

 この四十日間が、わたしたちの信仰を深め、新しい命へと導くものとなるように。

Ⅲ 神の言葉に生きる——信仰の歩み

 荒野を越えたイエスは、ただちに宣教を始められた。ヨルダン川での洗礼、荒野での試練を経て、今、御言葉を語る者として歩み出される。

 人々の暮らす町へ入り、悩める者たちのもとに行き、「神の国が近づいた」と告げられた。

「時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」(マルコ1:15)

 この宣言は、単なる知らせではなかった。それは、人々の生き方そのものを問い直す呼びかけだった。神の国は、遠い未来に訪れるものではなく、今、ここに迫っている。そのことを悟り、悔い改め、神の言葉に生きるように、と。

 この呼びかけは、今日を生きるわたしたちにも向けられている。

1 イエスは、知識としてではなく、御言葉に生きる者であった

 わたしたちは聖書を読む。礼拝で聞き、日々の生活の中で御言葉に触れる。しかし、それを「知る」だけで終わらせてしまっていないだろうか。

 神の言葉は、単なる知識ではない。それは、日々の歩みを導き、生きる力となるものだ。

 申命記には、イスラエルの民が約束の地に入る前に、モーセが語った言葉が記されている。

「この律法の言葉を心に刻み、子どもたちに語りなさい。家に座っているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも語りなさい」(申命記6:6-7)

 これは、「神の言葉を常に思い起こし、それに生きるように」という教えである。

 イエスは、荒野で試みを受けられたとき、「聖書に書いてある」と答えられた。御言葉こそが、イエスの歩みを支え、導きとなっていた。

 わたしたちの生活の中で、神の言葉はどう働いているだろうか?

  • 困難なとき、御言葉を思い出しているか?

  • 選択をするとき、神の導きを求めているか?

  • 誰かを励ますとき、神の言葉を語っているか?

 神の言葉に生きるとは、ただ「知る」ことではなく、「実践する」ことなのだ。

2 信仰の歩みは旅である——荒野を越えて

 イスラエルの民は、エジプトを出たとき、すぐに約束の地へ入ることはできなかった。彼らは四十年間、荒野を旅しながら、神の導きを学ばなければならなかった。

 信仰の歩みも同じである。

  • すぐに答えが見えないことがある

  • 神の導きを待つ時間がある

  • 時には、荒野のように感じるときがある

 しかし、神は決してわたしたちを見放されない。

「あなたの神、主は、あなたを見放すことも、見捨てることもない」(申命記31:6)

 神の御言葉に立つ者は、どんなときにも希望を持つことができる。

 イエスは、荒野で神の言葉に信頼し、それに従い抜かれた。そして、公の宣教を始められた。

 わたしたちもまた、神の言葉に信頼し、信仰の歩みを続ける者となりたい。

3 どのように神の言葉に生きるのか

 では、わたしたちは具体的にどのように御言葉に生きることができるのか。

  • 毎日の祈りの中で、御言葉を味わう

  • 生活の選択において、御言葉を基準にする

  • 困難の中で、神の約束を信じて歩む

 イエスは、

「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出るすべての言葉によって生きる」(ルカ4:4/申命記8:3)

 と言われた。

 わたしたちは、この言葉をどれほど真剣に受け取っているだろうか。

  • 自分の思いを優先し、神の言葉を後回しにしていないか?

  • 神が語られることよりも、この世の価値観を重視していないか?

  • 神の言葉に立ち、信仰をもって歩んでいるか?

 神の言葉に生きるとは、それを「聞いて終わる」のではなく、「選び取る」ことである。

4 神の言葉に生きる者として、新たな歩みを始める

 イエスは荒野を越え、新たな歩みを始められた。

「時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」(マルコ1:15)

 この言葉は、わたしたち一人ひとりに向けられている。

  • 神の言葉を心に刻み、それを実践する者となる

  • 信仰を旅路として受け入れ、神に導かれることを信じる

  • 大斎節のこの期間、神の言葉に生きる決意を新たにする

 大斎節の四十日間は、単なる「準備の期間」ではない。それは、神の言葉に生きる者として、具体的に歩み出すための時である。

 イエスが荒野を越え、新たな宣教の道を歩まれたように、わたしたちもまた、この大斎節を通して、神の言葉に生きる者としての新たな歩みを始めよう。

 神の言葉は、ただ聞くためではない。それに生きるために与えられているのだから。

Ⅳ 大斎節の旅路——信仰を深める四十日間

 夜明けの静寂の中、荒野を吹き抜ける風が砂を舞い上げる。長い試練のときを経て、イエスはついに歩みを進められる。

 四十日間の断食と祈り、悪魔の誘惑との対峙、そして御言葉への徹底した忠実——すべてを経た今、イエスは神の国の福音を告げ知らせるために、民のもとへと向かう。

 イエスの荒野の旅は、わたしたちにとって何を意味するのだろうか。

 大斎節の四十日間は、単なる宗教的な儀式ではない。それは、わたしたちが信仰の核心へと立ち戻るための霊的な旅である。わたしたちはこの期間、何を手放し、何を受け取るのか。どのようにして、神の御前に歩むのか。

1 大斎節の本質——何を手放し、何を得るのか

 大斎節は「節制の期間」として語られることが多い。しかし、それは単なる「食を控える」「何かを断つ」ための期間ではない。

 むしろ、何を手放し、何を神から受け取るのかを深く問うためのときである。

  • 執着しているものを手放し、神への信頼を新たにする

  • 神の御言葉を心に刻み、それを生きる決意をする

  • 隣人への愛を実践し、神の愛をより深く受け取る

 イエスが荒野で「神の言葉によって生きる」ことを選ばれたように、わたしたちもまた、自分の力ではなく、神の恵みによって生きることを学ぶ。

 この期間、わたしたちは何を求め、何に生きるのかをもう一度見直さなければならない。

2 荒野を歩む意味——試練と恵み

 荒野は、孤独と試練の場である。そこでは、快適さも保証もなく、人はただ自分の弱さと向き合うことを強いられる。

 しかし、聖書を見れば分かるように、神はしばしば大いなる計画の前に、まず人を荒野へと導かれる。

  • モーセは、エジプトの王宮を逃れた後、ミディアンの荒野で四十年間を過ごし、そこで神の召しを受けた(出エジプト記3:1-12)。

  • イスラエルの民は、約束の地へ入る前に四十年間荒野を旅し、神の導きを学んだ(申命記8:2-3)。

  • エリヤは、迫害から逃れた後、荒野で神の声を聞いた(列王記上19:11-13)。

  • そしてイエスもまた、公生涯を始める前に、荒野での試練を経験された(ルカ4:1-13)。

 わたしたちもまた、人生の中で「荒野のとき」を経験する。

  • 祈っても答えが得られないと感じるとき

  • 自分の力ではどうにもならないとき

  • 神の沈黙を感じるとき

 しかし、荒野の沈黙の中にこそ、神の語りかけがある。

「静まって、わたしこそ神であることを知れ」(詩編46:11)

 荒野は、ただの試練の場ではない。それは、神との対話の場であり、信仰が精錬される場なのである。

3 どのようにこの四十日間を歩むのか

 この大斎節の四十日間を、わたしたちはどのように歩むのか。

  • 祈りの中で、神の声を聞く
     祈りは、神との対話である。しかし、ただ願いを伝えるだけでなく、静かに御前にとどまり、神が語られることに耳を傾ける時間を持つことが大切である。

  • 御言葉に生きる
     イエスは荒野で「聖書に書いてある」と答えられた。御言葉こそが、信仰の根となる。毎日、聖書を開き、その言葉に耳を傾けることを心がけたい。

  • 隣人への愛を実践する
     大斎節は、自分を苦しめるための期間ではない。それは、神の愛を知り、それを他者へと分かち合うための期間である。

「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)

 この四十日間、わたしたちは何を手放し、何を受け取るのか。それは、自分だけの問題ではなく、わたしたちがどのように他者と関わり、どのように神の愛を示すのか、という問いでもある。

4 復活への備え——信仰の新たな始まり

 荒野の旅は、終わりではない。それは、新しい始まりへの準備である。

  • イスラエルの民は、荒野を越えて約束の地へと導かれた。

  • エリヤは、神の声を聞いた後、新たな使命へと向かった。

  • イエスは、荒野での試練を経て、公の宣教を始められた。

 神は言われる。

「見よ、わたしは新しいことを行う。今、それが芽生えている。あなたたちは、それを悟らないのか」(イザヤ43:19)

 わたしたちは、この四十日間の旅の終わりに、キリストの復活を迎える。そして、その復活の命は、わたしたち自身のうちにも生きるものである。

 この四十日間が、わたしたちの信仰を深め、新しい命へと導くものとなるように。

 わたしたちは何を手放し、何を受け取るのか。イエスが荒野を歩まれたように、わたしたちもまた、この大斎節の期間、御言葉を聞き、祈りと共に歩んでいこう。

 大斎節の旅路は、復活の朝へと続いている。

Ⅴ まとめ

 大斎節の四十日間、わたしたちはイエスの荒野の歩みを追体験する。誘惑、試練、孤独、そして神への絶対的な信頼。

 イエスは荒野を経て、神の国の福音を告げる者として歩み出された。同じように、大斎節の旅路は、単なる節制や忍耐の訓練ではない。それは、新たな霊的目覚めへと導かれる旅だ。

 人は何によって生きるのか。自分の力か、それとも神の言葉か。この問いに答えを出すため、大斎節はある。

 この期間、わたしたちは何を手放し、何を受け取るのか。

  • 神に依り頼む心を新たにする

  • 御言葉に生きることを選び取る

  • 隣人への愛を具体的に実践する

 荒野は過酷な場所だ。しかし、それは終わりではない。荒野を越えた先には、復活の朝がある。

 キリストが死を打ち破り、新しい命へと歩まれたように、わたしたちもまた、この四十日間の旅を通して新たな命へと導かれる。

「見よ、わたしは新しいことを行う。今、それが芽生えている。あなたたちは、それを悟らないのか」(イザヤ43:19)

 神は、わたしたちを新しい歩みへと招いている。荒野を恐れる必要はない。試練の中でこそ、神は共におられる。大斎節の旅路を、神の言葉に支えられながら進もう。

Ⅲ おわりに

 わたしたちは今日、大斎節の最初の一歩を踏み出しました。この期間は単に宗教的な義務を果たすものではなく、神の前に立ち止まり、わたしたち自身が本当に何を求め、何によって生きるのかを深く見つめ直すためのものです。

 イエスが荒野の試練に耐え、御言葉を生きる力とされたように、わたしたちもまた、この社会という現代の荒野において御言葉を生きる者となることが求められています。

 今週、わたしたちが目の当たりにした出来事の一つひとつが、社会という荒野の過酷さをわたしたちに突きつけています。

 日本社会がいまだに抱える男女格差という根深い課題を前に、真の平等を求めるためには意識だけでなく制度そのものを変革しなければならない現実があります。

 また、福島原発事故に対する司法の無罪判決は、法の限界を露呈したばかりか、東電という企業の社会的・道義的な責任をなおさら浮き彫りにしました。

 そしてトランプ政権が推し進める排他的なナショナリズムや民主主義を脅かす政策、兵庫県知事の倫理観の欠如、そして大船渡の山火事を通じて自然との共生の難しさなど、わたしたちは社会全体の痛みを感じ取り、共に背負う責任があります。

 荒野を歩むことは、時に孤独であり、先の見えない試練に感じられます。しかし聖書は告げています。

「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出るすべての言葉によって生きる」(申命記8:3)

 わたしたちはパンだけに頼るのではなく、目に見えない神の御言葉を心に刻み、それを人生の指針として生きるよう招かれています。

 社会の困難を前にしてわたしたちは無力感を抱くこともありますが、御言葉の中にこそわたしたちを支える力があり、そこに新たな道が開かれます。荒野は苦難だけではなく、神が新しいことを始められる場所でもあるのです。

 この大斎節の四十日間を通して、わたしたちは何を手放し、何を受け取るべきでしょうか。わたしたちは自分中心の考えを手放し、神の御言葉を受け取り、それによって新たな命を得ることができます。

 社会の困難に直面し、そこにある痛みを共に担いながら、互いに重荷を負い合う愛の実践こそが、荒野を歩む真の意味です。

 主が荒野を越えて福音を告げられたように、わたしたちもまた、この現代社会という荒野を越え、神の国の現実に向けて歩み出そうではありませんか。

祈りましょう

 慈しみ深い神よ、荒野で誘惑に立ち向かわれた主イエスの姿を覚え、今、あなたの御前に深く心を鎮めます。

 この大斎節の四十日間、わたしたちが自分自身の弱さと正面から向き合い、自分の力ではなくあなたの恵みによって生きることを学ぶことができますように。

 荒野は孤独であり、試練の時でありますが、同時にあなたがわたしたちに語りかけ、真の命に目覚めさせる場所であることを覚えます。

 主よ、わたしたちの社会には未だ多くの課題があります。女性が尊厳をもって生きられる社会を願い、傷ついた人々に正義が与えられ、権力を握る者が謙虚と倫理を取り戻すよう導いてください。

 また、わたしたちが自然との共生を大切にし、苦難にある人々に寄り添う共助の精神を実践できるよう、どうぞわたしたちを力づけてください。

 この大斎節の四十日間、誘惑に負けることなく、御言葉を心に深く刻み、自分自身の思いを捨てて、あなたの導きに従う決意を新たにできますように。

 そしてこの荒野を越え、あなたが与えてくださる復活の喜びへと歩む者としてください。

 父と子と聖霊の御名によりて。アーメン。

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