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▼ 教会時論「戦争は愛を引き裂き、人間を砕く――東京大空襲80年に寄せて」

教会時論(2025/3/10) 八〇年前の東京の夜に  八〇年前の東京の夜、炎が人びとの命を容赦なく飲み込み、家族を引き裂いた。  母は子を抱きしめたまま、父は必死に叫びながら、焼け落ちた家の中でその生を終えた。戦争とは、そういうものだ。  「国を守る」?「誇りのため」?――そんな言葉では到底、救いきれない死が、そこに確かに存在していた。 美辞麗句の背後にある現実  好戦的な者たちは、今もなおいる。  「抑止力」「防衛のため」と美辞麗句を並べても、その代償として血を流すのは、力なき市井の人びとである。  銃が平和を生んだことはない。焼夷弾が正義を証明したことも、かつて一度としてなかった。  空襲の夜に失われた命の重みを、政治の駆け引きや防衛論争の中で忘れてはならない。 九条の意味――過去から未来への誓い  憲法第九条、それは人類が戦争の狂気から生還した証であり、未来への誓いであった。  だが今、その誓いをないがしろにする声が大きくなりつつある。  戦争は「いつかまた」ではなく、「決意ひとつ」で始まってしまう現実である。  だからこそ、わたしたちはこの日に立ち止まり、思い出す必要があるのだ。  戦争は、愛を引き裂く。  だから、戦争を拒む。  それこそが、人間の選ぶべき唯一の道である。 祈りと分かち合いのすすめ  どうか、この記憶を、大切な方々と共に分かち合ってください。  そして、あの日に失われた命と、その叫びに心を重ねながら、共に思いを深めてくださいますように。  

大斎節第一主日 二〇二五年三月九日 ▼ 教会時論「国際女性デー50年——意識と制度、変革のとき」他 ▼ 説教「荒野を越えて、御言葉に生きる」

  教会時論・説教(2025年3月9日)  わたしたちは日常を生きる中で、時代が刻む痛みや揺れ動く社会の声をどれほど受け止めているだろうか。世の中に溢れるニュースは、決してわたしたちと無縁ではない。  社会の変容や事件の深層には、わたしたちが信じる価値や良心を絶えず揺さぶり、問い直す力がある。今週もまた、わたしたちは目を背けることができない出来事を目の当たりにした。ジェンダー平等への道のりがあまりにも遠い日本社会、原発事故裁判が明らかにした社会的責任の在り方、米国で高まる自由と民主主義への危機、兵庫県知事をめぐる倫理と権力の問題、そして大船渡で猛威を振るった山火事が示す自然との共生の難しさ―。  これらの現実を冷静に見つめ、その奥にある問題の本質を掘り下げることが求められている。今こそわたしたちは、傍観者ではなく当事者として社会に向き合い、信仰と行動を通じて応答すべきである。今日の《教会時論》がその一助となることを願いつつ、論考を始めたい。 国際女性デー50年——意識と制度、変革のとき  今年の3月8日、「国際女性デー」が国連で制定されてから半世紀を迎える。50年前、女性の権利向上と社会参加を世界規模で推進すべく立ち上がったこの記念日は、女性たちの長い闘いの歴史に光を当ててきた。  しかし、日本に目を向けると、そこに映るのは道半ばどころか、いまだ進歩の兆しが見えにくい現状である。  日本社会の男女平等度を示す指標は、昨年も国際的な比較で低迷を続け、146か国中118位にとどまった(世界経済フォーラム調査)。特に政治分野と経済分野における遅れが顕著だ。たとえば、昨年の衆院選で女性議員の割合は過去最高の15.7%となったが、有権者の半数が女性である事実を前に、この数字を「前進」と呼ぶのは憚られる。  政党や政治の世界には今なお男性中心の意識が蔓延し、女性の参画を促す環境整備や、クオータ制の導入をはじめとする実効的な改革は後手に回ったままである。  企業の現場もまた同様である。わずかではあるが女性役員の登用も見られるようになったが、1600社以上ある上場企業の中で女性CEOはわずか13名、全体の0.8%にすぎない。女性たちは出産や育児によるキャリアの途絶を余儀なくされ、非正規雇用に追いやられるケースも多い。さらには、男女の賃金格差は解消されるどころか、依然として根...

▼ 牧者雑記「のろのろ、もたもた──日本の『のろまな教会』に喝!」

教会時論(2025年3月7日) 名古屋高裁の判決と、問われる政治と教会の怠慢  名古屋高裁がまた一つ、未来へ向けた大きな一歩を踏み出した。「同性婚を認めないことは違憲」——当然だ。  子どもの福祉にまで深刻な影響を及ぼす現行法の不備が、ついに司法の場で明確に断罪された。判決は、同性カップルが直面する現実的な困難を直視し、理屈抜きに「こんなの不公平じゃないか」と言っているぞ。まっとうだ。理路整然としている。  こんな当たり前のことを言うのに、どうして何年もかかるのか? この国の立法府よ。のろのろ、もたもた、何をぐずぐずしているのか。違憲判決が全国で相次いでいるのに、いつまで「国会で議論を深める必要がある」とか「国民の理解が」とか、のらりくらり言い続けるつもりか?  「議論を深める」って、結局何をしているの? 何年も前から同じ場所で足踏みして、同じことを言っているだけじゃない?  「国民の理解」なら、もうとっくに進んでいる。世界の流れも、日本国内の世論も、同性婚の合法化を求めている。それなのに、この国の政治は、まるでガラパゴス、時代から取り残されている。 日本のキリスト教界への叱咤  そして、日本のキリスト教界よ!  言っておくが、君たちの足の遅さは、もはや奇跡レベルだぞ。世界の教会はとっくに動き出しているというのに、未だに「聖書はどう言っているのか」などと、無駄な討論をしている。  「考える」どころか、結論を先送りし続けているだけではないか?「新しい神学的視点を」などと言いながら、出てくるのは、何の目新しさもない、ありふれた翻訳本の紹介。しかも、それを「これぞ現代的アプローチ!」などと誇らしげに語る、ろくでなしの聖職者たち。時代遅れにもほどがある。笑うに笑えない。  欧州、カナダ、米国、オーストラリア——これらの国々は、すでに同性婚を法制化し、教会もそれに対応している。人権を尊重する社会では、もはや議論の余地すらない。  しかし、日本の教会はどうだ? 沈黙か、または「伝統的な価値観」とやらを盾にしての先延ばし。これは信仰でも何でもない。単なる怠慢だ。 いまこそ応答を  もう待てない。同性婚を法制化せよ。それが人として、国として、そして信仰者としての責務である。  社会は前に進んでいる。取り残されたくなければ、いい加減、動け! 【引用】 毎日新聞. (2025年3月7日...

大斎節前主日 二〇二五年三月二日 ▼ 教会時論「悔い改めと和解の道——大斎節の光のもとで世界を読み解く」

 教会時論(2025年3月2日)  大斎節(Lent)は、キリスト教徒にとって悔い改めと霊的刷新を深める神聖な四十日間です。これはイエス・キリストの復活祭に備える時期であり、信徒は断食、祈り、慈善行為を通じて自らの罪を省み、神との関係を新たにします。  大斎始日である灰の水曜日には、額に灰で十字架が記され、「塵にすぎないお前は塵に返る」(創世記3:19)という言葉が告げられます。この象徴は人間の有限性と傲慢さへの警告であり、神に立ち返るようわたしたちを促すものです。典礼では「すべてのキリスト者は悔い改め、福音によって宣言される赦しを確信しなさい」と呼びかけられます。赦しは神の愛の極致であり、どれほど罪深い者であっても、キリストの十字架において悔い改める者には新しい命への道が開かれます。大斎節はその神秘に深く与るときなのです。 罪と赦し、和解のヴィジョンを世界へ  悔い改めとは、単なる自己批判ではありません。神の前に心を開き、自らの傷と他者への傷を見つめる勇気です。そして、そのうえで赦しと和解の希望を見出す信仰の応答でもあります。  イエス・キリストの十字架は、わたしたちの罪を贖う愛の行為でした。その赦しの経験こそが、他者を赦す力の根源です。これは個人間だけでなく、国際社会においても通じる真理ではないでしょうか。  例えば第二次世界大戦後のヨーロッパでは、かつて敵対していた国家が対話と共通の価値を見出すことにより、今日の欧州連合のような平和共同体を築き上げました。過去の敵が将来の友となる――それは歴史が証明する現実であり、また福音が示す希望でもあります。 ウクライナ戦争を大斎節の光で読む  現代の戦争の中でも、ロシアによるウクライナ侵攻はもっとも深刻な例の一つです。多くの市民が命を奪われ、憎しみと不信が社会を分断しています。このような状況で「赦し」や「和解」を語るのは極めて困難です。  しかし、キリスト教の信仰は、最も深い闇においてこそ、神の光を見出そうとする道を示します。ウクライナ東方カトリック教会のスビャトスラフ・シュフチューク大司教は、「神に赦された者だけが、赦す力を得る」と語ります。これは和解が信仰に根ざす行為であり、単なる寛容ではないことを明らかにします。  また、大司教は和解の前提として、真実の究明と正義の実現を強調します。加害者に対する法の裁き、...

大斎節前主日 二〇二五年三月二日 ▼ 教会時論「日本学術会議改組—独立性の確保か、政府の統制強化か」他 ▼ 説教「変容の光に生きる――神の臨在と愛の実践」

 教会時論・説教(2025年3月2日) 主の平和が皆様と共にありますように。  早春の冷たさが残る日々ですが、時折差し込む陽光に、春の訪れを感じる頃となりました。皆様のご健康はいかがでしょうか。わたしたちはこうして神の御前に集い、共に祈り、御言葉に耳を傾ける恵みを与えられていることを心から感謝いたします。季節が移り変わる中で、わたしたちの心もまた、新たな歩みへと導かれていくことを感じます。  この日曜日を迎えるにあたり、わたしたちは教会暦の一つの転換点に立っています。大斎節前主日、すなわち灰の水曜日を目前に控えたこの日は、信仰の旅路において特別な意味を持つ時です。やがて訪れる大斎節は、悔い改めと霊的鍛錬の期間であり、主イエス・キリストが荒野で四十日間断食し、試練を受けられたことを覚える時です。この四十日間の歩みは、単なる伝統ではなく、わたしたちが神との関係を深め、自らを見つめ直すための霊的な旅路なのです。  この大斎節前主日は、その入り口に立ち、これから始まる信仰の旅を見据える日です。まるで山の頂から広大な景色を見渡すように、わたしたちはここで立ち止まり、来たるべき霊的な道程を静かに見つめる機会を与えられています。今日の福音書に記される「主の変容」の場面は、まさにその象徴です。イエスがペトロ、ヨハネ、ヤコブを伴い山に登り、栄光に輝かれる姿を弟子たちに示されたこの出来事は、わたしたちにとって深い示唆を与えます。神の栄光の輝きを仰ぎ見る時、わたしたちは同時に、その栄光が十字架の苦しみを経て現れるものであることを思い起こさねばなりません。信仰の道は、ただ喜びや栄光に満ちたものではなく、時には試練や困難を通してこそ、より深い意味を持つのです。  わたしたちもまた、この大斎節前主日にあたり、己の歩みを振り返る時を持ちたいと思います。わたしたちは今、どのような信仰の道を歩んでいるでしょうか。主の光に照らされる時、わたしたちは自らの弱さや過ちを見出し、それを悔い改める機会が与えられます。そして、その悔い改めこそが、主の愛と赦しの深さを知る恵みの時となるのです。大斎節とは、わたしたちが新たにされるための時であり、主の御前に立ち返る機会です。  今週、世界ではさまざまな出来事がありました。戦争の脅威はなお続き、政治の混乱や経済的不安が多くの人々の生活を揺るがしています。わたし...
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