教会時論(2025/3/10)
八〇年前の東京の夜に
八〇年前の東京の夜、炎が人びとの命を容赦なく飲み込み、家族を引き裂いた。
母は子を抱きしめたまま、父は必死に叫びながら、焼け落ちた家の中でその生を終えた。戦争とは、そういうものだ。
「国を守る」?「誇りのため」?――そんな言葉では到底、救いきれない死が、そこに確かに存在していた。
美辞麗句の背後にある現実
好戦的な者たちは、今もなおいる。
「抑止力」「防衛のため」と美辞麗句を並べても、その代償として血を流すのは、力なき市井の人びとである。
銃が平和を生んだことはない。焼夷弾が正義を証明したことも、かつて一度としてなかった。
空襲の夜に失われた命の重みを、政治の駆け引きや防衛論争の中で忘れてはならない。
九条の意味――過去から未来への誓い
憲法第九条、それは人類が戦争の狂気から生還した証であり、未来への誓いであった。
だが今、その誓いをないがしろにする声が大きくなりつつある。
戦争は「いつかまた」ではなく、「決意ひとつ」で始まってしまう現実である。
だからこそ、わたしたちはこの日に立ち止まり、思い出す必要があるのだ。
戦争は、愛を引き裂く。
だから、戦争を拒む。
それこそが、人間の選ぶべき唯一の道である。
祈りと分かち合いのすすめ
どうか、この記憶を、大切な方々と共に分かち合ってください。
そして、あの日に失われた命と、その叫びに心を重ねながら、共に思いを深めてくださいますように。