スキップしてメイン コンテンツに移動

▼ 牧者雑記「のろのろ、もたもた──日本の『のろまな教会』に喝!」


教会時論(2025年3月7日)

名古屋高裁の判決と、問われる政治と教会の怠慢

 名古屋高裁がまた一つ、未来へ向けた大きな一歩を踏み出した。「同性婚を認めないことは違憲」——当然だ。

 子どもの福祉にまで深刻な影響を及ぼす現行法の不備が、ついに司法の場で明確に断罪された。判決は、同性カップルが直面する現実的な困難を直視し、理屈抜きに「こんなの不公平じゃないか」と言っているぞ。まっとうだ。理路整然としている。

 こんな当たり前のことを言うのに、どうして何年もかかるのか? この国の立法府よ。のろのろ、もたもた、何をぐずぐずしているのか。違憲判決が全国で相次いでいるのに、いつまで「国会で議論を深める必要がある」とか「国民の理解が」とか、のらりくらり言い続けるつもりか?

 「議論を深める」って、結局何をしているの? 何年も前から同じ場所で足踏みして、同じことを言っているだけじゃない?

 「国民の理解」なら、もうとっくに進んでいる。世界の流れも、日本国内の世論も、同性婚の合法化を求めている。それなのに、この国の政治は、まるでガラパゴス、時代から取り残されている。

日本のキリスト教界への叱咤

 そして、日本のキリスト教界よ!

 言っておくが、君たちの足の遅さは、もはや奇跡レベルだぞ。世界の教会はとっくに動き出しているというのに、未だに「聖書はどう言っているのか」などと、無駄な討論をしている。

 「考える」どころか、結論を先送りし続けているだけではないか?「新しい神学的視点を」などと言いながら、出てくるのは、何の目新しさもない、ありふれた翻訳本の紹介。しかも、それを「これぞ現代的アプローチ!」などと誇らしげに語る、ろくでなしの聖職者たち。時代遅れにもほどがある。笑うに笑えない。

 欧州、カナダ、米国、オーストラリア——これらの国々は、すでに同性婚を法制化し、教会もそれに対応している。人権を尊重する社会では、もはや議論の余地すらない。

 しかし、日本の教会はどうだ? 沈黙か、または「伝統的な価値観」とやらを盾にしての先延ばし。これは信仰でも何でもない。単なる怠慢だ。

いまこそ応答を

 もう待てない。同性婚を法制化せよ。それが人として、国として、そして信仰者としての責務である。

 社会は前に進んでいる。取り残されたくなければ、いい加減、動け!

【引用】
毎日新聞. (2025年3月7日). 我が子思い「いい判決」 子供の不利益言及 同性婚名古屋高裁判決. 毎日新聞. https://mainichi.jp/articles/20250307/k00/00m/040/372000c?fbclid=IwY2xjawJkl3BleHRuA2FlbQIxMQABHgQ6B86whajj9ZhzD6ZvF5FMynuS_HDGkZ9UN3CUVdQlJ9wIsbJiah4pmq_R_aem_x-KGDxhGhYzuk1JsQAA56w

このブログの人気の投稿

平和と正義のために祈り、歩む教会へ 《自由と友愛の独立カトリック教会大主教寄稿文》

見過ごせない現実と、信仰からの問いかけ  今の日本を見つめると、長いあいだ変わらぬ政治のかたちと、それに伴う新自由主義的な政策が、社会の隅々にまで深く根を下ろしているのを感じます。その結果、豊かさが一部に集中し、生活の不安や孤立感を抱える方が後を絶ちません。特に声を上げにくい立場にある人たちの苦しみは、表には出にくい分、いっそう深く、重く積み重なっているように思えます。  それでも、わたしたちは希望を捨てません。信仰は、ただ現実を嘆くためのものではないからです。むしろ、人間の限界や弱さを知りながら、それでも変わらぬ神の愛と正義を信じる――その確かさに、私たちは支えられています。 憲法第9条と、平和を生きる勇気  日本国憲法の第9条は、戦争の悲惨な記憶を受けとめ、「武力ではなく対話によって平和を築こう」と決意した国民の思いを、かたちにしたものです。この条文が語る理念は、国際社会の中でも特別な価値をもつ、貴い約束だと、わたしたちは受け止めています。  もちろん、今の世界は決して平穏ではありません。多くの国で安全保障への関心が高まり、「軍備強化」という言葉が当たり前のように語られています。しかし本当にそれだけが、わたしたちの選ぶべき道なのでしょうか。  イエスさまはこう教えてくださいました――  「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ5:9)  争わない選択をする勇気、対話をあきらめない忍耐。それこそが、神に呼ばれた民としての責任であり、日本が示せるもう一つの道なのではないでしょうか。 格差と向き合う信仰――尊厳ある暮らしのために  今の日本では、働いても報われないという声をよく聞きます。非正規雇用や孤立した老後の不安、都市と地方のあいだに広がる格差……。それはただの数字ではなく、日々を生きる人たちの痛みの現れです。  イエスさまは言われました――  「飢えていたとき、あなたたちは食べ物を与えた」(マタイ25:35)  目の前の苦しみに気づかぬふりをすることは、キリスト者として見過ごせない態度です。富や機会は、神がすべての人に与えてくださった恵みであるならば、それを分かち合い、支え合う社会を築くことこそ、信仰に生きる道だと思うのです。 地球と共に生きる――神の創造を守る責任  自然の恵みの中で生きているわたしたちは、地球を「自分たちのも...

大斎節第一主日 二〇二五年三月九日 ▼ 教会時論「国際女性デー50年——意識と制度、変革のとき」他 ▼ 説教「荒野を越えて、御言葉に生きる」

  教会時論・説教(2025年3月9日)  わたしたちは日常を生きる中で、時代が刻む痛みや揺れ動く社会の声をどれほど受け止めているだろうか。世の中に溢れるニュースは、決してわたしたちと無縁ではない。  社会の変容や事件の深層には、わたしたちが信じる価値や良心を絶えず揺さぶり、問い直す力がある。今週もまた、わたしたちは目を背けることができない出来事を目の当たりにした。ジェンダー平等への道のりがあまりにも遠い日本社会、原発事故裁判が明らかにした社会的責任の在り方、米国で高まる自由と民主主義への危機、兵庫県知事をめぐる倫理と権力の問題、そして大船渡で猛威を振るった山火事が示す自然との共生の難しさ―。  これらの現実を冷静に見つめ、その奥にある問題の本質を掘り下げることが求められている。今こそわたしたちは、傍観者ではなく当事者として社会に向き合い、信仰と行動を通じて応答すべきである。今日の《教会時論》がその一助となることを願いつつ、論考を始めたい。 国際女性デー50年——意識と制度、変革のとき  今年の3月8日、「国際女性デー」が国連で制定されてから半世紀を迎える。50年前、女性の権利向上と社会参加を世界規模で推進すべく立ち上がったこの記念日は、女性たちの長い闘いの歴史に光を当ててきた。  しかし、日本に目を向けると、そこに映るのは道半ばどころか、いまだ進歩の兆しが見えにくい現状である。  日本社会の男女平等度を示す指標は、昨年も国際的な比較で低迷を続け、146か国中118位にとどまった(世界経済フォーラム調査)。特に政治分野と経済分野における遅れが顕著だ。たとえば、昨年の衆院選で女性議員の割合は過去最高の15.7%となったが、有権者の半数が女性である事実を前に、この数字を「前進」と呼ぶのは憚られる。  政党や政治の世界には今なお男性中心の意識が蔓延し、女性の参画を促す環境整備や、クオータ制の導入をはじめとする実効的な改革は後手に回ったままである。  企業の現場もまた同様である。わずかではあるが女性役員の登用も見られるようになったが、1600社以上ある上場企業の中で女性CEOはわずか13名、全体の0.8%にすぎない。女性たちは出産や育児によるキャリアの途絶を余儀なくされ、非正規雇用に追いやられるケースも多い。さらには、男女の賃金格差は解消されるどころか、依然として根...

▼ 牧者雑記「東日本大震災から何を学んだ? どこに生かした? 被災者を置き去りにし、政治も行政も責任を曖昧にし続けている」

 牧者雑記(2025年3月11日)  14年経った。それでも日本は「災害大国」の名を返上できず、無数の命が失われ続ける。「備える」と言いながら、同じ苦しみを、同じ過ちを、幾度となく繰り返している。  能登半島地震では、直接の死者を上回る「災害関連死」が300人を超えた。寒さと飢え、劣悪な避難環境が人を死へと追いやった。これは「天災」ではない。「人災」だ。  東日本大震災から何を学んだ? どこに生かした? 被災者を置き去りにし、政治も行政も責任を曖昧にし続けている。  福島第1原発事故も終わっていない。処理水放出、除染土の処分、核燃料の行き場なし。復興を叫びながら、その足元には未解決の問題が山積する。廃炉は進まず、未来の世代にツケを回す。  言葉だけの「教訓」は不要だ。避難所の改善、医療の充実、高齢者の孤立を防ぐ仕組み、これらを即座に実行しなければならない。「次こそは」では遅い。今、この瞬間に対策を打たなければ、また死者が積み重なる。  語り継ぐのは、悲しみではなく怒りである。忘れるな。過去を悼むだけでは、未来を守れない。  どうか、大切な方々と分かち合い、共に思いを深めてください。  皆様へ。特に東日本大震災の死傷者、被害に遭われた方々、そして今もなお災害の影響に苦しんでおられる方々のために。  亡くなられた方々が、主の御手のうちに安らかに憩われますように。  生きておられるすべての方々の上に、主の慰めと平安が豊かにありますように。
© 2025  ロゴ 自由と友愛の独立アングリカン教会
トップページ プライバシーポリシー 教会メインページ