教会時論(2025年3月2日)
大斎節(Lent)は、キリスト教徒にとって悔い改めと霊的刷新を深める神聖な四十日間です。これはイエス・キリストの復活祭に備える時期であり、信徒は断食、祈り、慈善行為を通じて自らの罪を省み、神との関係を新たにします。
大斎始日である灰の水曜日には、額に灰で十字架が記され、「塵にすぎないお前は塵に返る」(創世記3:19)という言葉が告げられます。この象徴は人間の有限性と傲慢さへの警告であり、神に立ち返るようわたしたちを促すものです。典礼では「すべてのキリスト者は悔い改め、福音によって宣言される赦しを確信しなさい」と呼びかけられます。赦しは神の愛の極致であり、どれほど罪深い者であっても、キリストの十字架において悔い改める者には新しい命への道が開かれます。大斎節はその神秘に深く与るときなのです。
罪と赦し、和解のヴィジョンを世界へ
悔い改めとは、単なる自己批判ではありません。神の前に心を開き、自らの傷と他者への傷を見つめる勇気です。そして、そのうえで赦しと和解の希望を見出す信仰の応答でもあります。
イエス・キリストの十字架は、わたしたちの罪を贖う愛の行為でした。その赦しの経験こそが、他者を赦す力の根源です。これは個人間だけでなく、国際社会においても通じる真理ではないでしょうか。
例えば第二次世界大戦後のヨーロッパでは、かつて敵対していた国家が対話と共通の価値を見出すことにより、今日の欧州連合のような平和共同体を築き上げました。過去の敵が将来の友となる――それは歴史が証明する現実であり、また福音が示す希望でもあります。
ウクライナ戦争を大斎節の光で読む
現代の戦争の中でも、ロシアによるウクライナ侵攻はもっとも深刻な例の一つです。多くの市民が命を奪われ、憎しみと不信が社会を分断しています。このような状況で「赦し」や「和解」を語るのは極めて困難です。
しかし、キリスト教の信仰は、最も深い闇においてこそ、神の光を見出そうとする道を示します。ウクライナ東方カトリック教会のスビャトスラフ・シュフチューク大司教は、「神に赦された者だけが、赦す力を得る」と語ります。これは和解が信仰に根ざす行為であり、単なる寛容ではないことを明らかにします。
また、大司教は和解の前提として、真実の究明と正義の実現を強調します。加害者に対する法の裁き、被害者への賠償と心の癒やしが不可欠であると。過去の民族紛争でも、南アフリカやルワンダ、ポーランドとウクライナの和解プロセスにおいて、「真実和解委員会」や共同声明による歴史的事実の確認と謝罪が大きな意味を持ちました。
平和と正義のはざまで:キリスト者の模索
戦争という極限状況において、キリスト者は平和を願いつつ、同時に正義の実現を求めます。その間で揺れ動く葛藤こそが、信仰の真価を問う場面です。
暴力を否定しながらも、侵略や抑圧に無抵抗であるべきなのか――この問いに対し、多くのリベラルなキリスト者は「人格の否定に陥ることなく悪と闘う道」を模索しています。敵を神の被造物として見つめ直し、報復ではなく対話を求める姿勢です。
実際、ウクライナの信徒たちは戦いのさなかにも、相手への憎悪に打ち克とうと祈り続けています。大斎節はこのような「霊的戦い」のときでもあります。
また、戦争を引き起こす構造的原因にも目を向けるべきです。米国の外交政策の二面性、日本の過去の加害と責任――自国の正義を主張する前に、自己の歴史と向き合い、悔い改める謙虚さが必要です。それこそが真の平和への第一歩です。
悔い改めから平和へ:希望を繋ぐために
キリスト教は、赦しと和解を通して歴史を変える力を信じています。悔い改めがあれば、たとえ絶望の中にも新しい光は差し込むのです。
教皇フランシスコは、ロシアとウクライナの双方に「回心」を求め続けています。心が変えられれば、世界も変わるという信仰に基づいています。戦争の犠牲者は単なる統計ではなく、一人ひとりが神に愛された命です。わたしたちは、その現実を受け止めつつ、赦しと正義を架け橋とした「希望の政治」を築かねばなりません。
大斎節から復活祭への歩みは、まさにその象徴です。死と闇から生命と光へ――この希望こそ、わたしたちが担うべき福音の使命であり、現代世界におけるキリスト者の召命にほかなりません。