【教会暦】
聖霊降臨後第三主日 二〇二五年六月二十九日【聖書箇所】
旧約日課 :列王記上 一九章一五〜一六節、一九〜二一節
使徒書 :ガラテヤの信徒への手紙 五章一節、一三〜二五節
福音書 :ルカによる福音書 九章五一〜六二節
旧約日課 :列王記上 一九章一五〜一六節、一九〜二一節
使徒書 :ガラテヤの信徒への手紙 五章一節、一三〜二五節
福音書 :ルカによる福音書 九章五一〜六二節
【要旨】
自由とは、欲望のままに生きることではない。それは、キリストに従うことによって与えられる、霊による新たな生き方である。エリシャは農具を焼き、過去を手放して預言者の召命に応えた。主イエスは、手を鋤にかけた者が後ろを振り返ることなく、神の国のために歩むよう招く。私たちは、愛によって互いに仕え合い、霊の実を結ぶ自由の道を歩む者として召されている。
自由とは、欲望のままに生きることではない。それは、キリストに従うことによって与えられる、霊による新たな生き方である。エリシャは農具を焼き、過去を手放して預言者の召命に応えた。主イエスは、手を鋤にかけた者が後ろを振り返ることなく、神の国のために歩むよう招く。私たちは、愛によって互いに仕え合い、霊の実を結ぶ自由の道を歩む者として召されている。
【本文】
神の国へのまなざしを整える時
聖霊降臨の祝日から数えて三つ目の主日を迎えたこの日、私たちは、神の国の到来を見つめつつ、地におけるキリストの道をあらためて問われる。
典礼の色は緑である。それは、単に安定や成熟を表す色ではない。この季節において緑は、聖霊によって養われる成長のしるしである。信仰はただ芽吹くだけでは不十分であり、霊的な実を結ぶことこそが本質であると、聖霊降臨後の諸主日は繰り返し私たちに告げる。
けれど、成長とは、静的で緩慢な過程ではない。それはむしろ、断念と決断、召命と応答という切断の繰り返しを経て成立する。きょう与えられた聖書箇所はいずれも、過去との断絶を伴う召しに対して、ひとがどう応答するかを描いている。そしてその応答のかたちは、古代の預言者にも、初代教会の信徒にも、主イエスと道を共にする弟子にも、それぞれ異なる様相を帯びている。
「自由」の季節――それがこの主日のもう一つの霊的背景である。ガラテヤ書が語る「キリストによる自由」は、ただの解放ではない。むしろそこには、「愛によって互いに仕え合いなさい」という制限がある。この矛盾のような真理の内に、信仰者の成熟があるのだ。
今ここに集う私たちも、神の召命に対し、自由の霊に導かれつつ、なお振り返らずに歩む者となるよう招かれている。
召命とは、焼き尽くす決断である——エリヤとエリシャの交代劇
旧約日課の舞台は、エリヤとエリシャ、ふたりの預言者の交差の瞬間である。北イスラエルの王アハブの時代、偶像礼拝と霊的退廃が極みに達していた。エリヤはカルメル山でバアルの預言者四五〇人を退けるという壮絶な戦いを終えたが、その直後、王妃イゼベルの報復を恐れて荒野に逃げ込み、神に命を取ってほしいと懇願する。
この絶望の只中にあって、神はエリヤに対して新たな召命を告げる。「アラムの王ハザエルを油注いで立てよ。イスラエルの王としてエフを、そしてあなたの後継者としてエリシャを召し出せ」(一九・一五以下参照)。預言者の交代は、単なる世代継承ではない。それは霊的責任の委譲であり、神の言葉が途絶えぬようにするための連鎖である。
注目すべきは、エリシャの応答である。彼は十二くびきの牛を持ち、耕作の民として豊かに暮らしていた。その生活基盤を放棄し、なんと自らの牛を屠り、鋤を燃やし、民に肉を分け与えて、エリヤに従う。「焼く」という行為は、後戻りできないという決断のしるしである。農具を残したまま預言者に従えば、「やはり戻ろうか」という誘惑に抗しきれまい。エリシャはそれを断ち切る。
この姿は、信仰者にとっての召命と自由の関係を鮮やかに示している。自由とは選択肢が多いことではなく、ひとつを選びぬく決断である。神の国のために何を手放すか――その問いは、現代の私たちにとっても決して過去の物語ではない。
ガラテヤの教会は、異邦人の信徒を迎え入れた若い共同体であった。そこに、「律法の実行なくして救いはない」と主張する者たちが現れ、割礼や儀式の遵守を強く迫るようになっていた。信仰による義か、それとも律法による義か――この問いは、福音の本質に関わる根源的な問題である。パウロは、律法による義を否定するのではなく、それを超えて、キリストにおいて完成された自由へと導こうとする。
だが、パウロにとって「自由」とは、いかなる意味を持つのか。それは決して「好きなように生きること」ではない。むしろ、彼はすぐさまこう続ける。「自由だからといって、肉に罪を犯させる機会とせず、愛によって互いに仕えなさい」(五・一三)。ここにこそ、キリスト教的自由の逆説的核心がある。
自由とは、自分のために生きる力ではない。他者のために仕える力である。それは、自己を放棄し、愛によって生きることによってしか得られない自由なのだ。この逆説が成り立つのは、キリストがすでに私たちのために、自らを献げてくださったからである。私たちはその恵みによって、霊のうちに歩む者とされている。
パウロは「霊の実」を九つ挙げる。「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」(五・二二〜二三)。これらはいずれも、自己実現ではなく他者との関係において実る徳である。自由の完成とは、自己中心からの解放にほかならない。そしてそれは、信仰共同体の中でこそ育まれる。
私たちは、日々の生活のなかで、この「霊の実」を結ぶ自由に生きているだろうか。愛ではなく競争、寛容ではなく正しさ、節制ではなく快楽が支配するこの時代にあって、霊の導きに従って歩むとは、容易なことではない。だが、それでもこの道を歩む者こそ、真の意味でキリストに自由にされた者である。
自由は、孤立ではなく交わりに生きる力である。信仰は、内面の平安ではなく、共に歩む者への責任である。教会は、律法による管理の場ではなく、霊によって互いに仕え合う自由の共同体である。
だからこそ、使徒パウロは、ガラテヤの信徒たちに繰り返し呼びかける。「霊の導きに従って歩みなさい」(五・一六)。それは、目に見える正義や律法を超えて、神の愛に根ざす新しい歩みである。そしてその歩みは、必ず霊の実を結ぶ。
福音書の場面では、三人の人々がイエスに従うか否かの選択を迫られている。一人は、自ら「従います」と申し出ながら、主から「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もない」と突き放される。次の人にはイエスが「わたしに従いなさい」と招くが、その人は「まず父を葬らせてください」と願う。そして三人目は、家族に別れを告げてから従うと言うが、イエスは前述の言葉で返す。
これらのやりとりは厳しすぎるようにも思える。なぜ主は、葬儀という当然の責任さえ許さないのか。なぜ主は、愛する家族に別れを告げることすら否定するのか。
だが、ここで問われているのは、家族愛や義務そのものではない。それはむしろ、「従う」と口にする者が、何を最優先にするかという霊的優先順位の問題である。神の国は、生活の傍らにあるひとつの選択肢ではなく、すべてを支配する価値の根源である。イエスに従うとは、ただ同行することではない。すべてを再配置すること、過去の自己理解を放棄することなのだ。
このような過酷な召命は、現代社会において、ますます理解されにくくなっている。私たちは「自由」を掲げながら、実際には過去の記憶、社会的な期待、役割、キャリア、関係性、あるいは自己実現の欲望に縛られている。それらは、すべて善なるもののように見えながら、神の国への全的応答を鈍らせる。
現代の信仰者にとって、召命はますます困難なものとなっている。なぜなら、私たちは「何者であるか」を他者の承認によって定義する社会に生きているからだ。SNSの中で「いいね」を得るための言葉を選び、経歴や肩書きが人格と同一視される世界において、「すべてを捨てて従う」ことは、まるで無謀な自己喪失に映るだろう。
だが、主イエスの召命は今も変わらず、私たちの耳元で語られている。「わたしに従いなさい」。この言葉は、何かを捨てさせるだけの命令ではない。それはむしろ、真に新しい自己、真に自由な生き方へと招くものである。
現代においても、主の召しに応える者はいる。かつてエリシャが農具を焼き、弟子たちが網を捨てたように、いまも人生の安定を犠牲にして福音に生きる人々がいる。彼らは「社会的には損な道」を選んだように見えるかもしれない。だが、それは霊的には最大の自由への入口である。
自由とは、もはや過去に定義された自分ではなく、神に呼び出されることによって形成される新しい自己を受け入れることである。それは「召命」と呼ばれ、「弟子となること」とも言い換えられる。決して安易ではないが、真実な道である。
召命とは、決して孤立した英雄的行為ではない。それはむしろ、共同体の中で支え合い、仕え合うことで完成される。たとえ神の呼びかけが個々の心に響いたとしても、それに応える道は、教会の中で、兄弟姉妹との関係性のうちに歩まれるのだ。エリシャもまた、ただ預言者に従ったのではなく、牛を屠り、肉を焼いて民にふるまった。「さよなら」を言う代わりに、「分かち合い」を通して、自らの決断を共同体に開示したのである。
現代の教会において、このような交わりの姿は、どれほど確かに保たれているだろうか。私たちは「召命」や「自由」という語を、あまりに個人的な霊的体験として理解していないだろうか。しかしながら、信仰の道を共に歩む者にとって、兄弟姉妹との関係は単なる背景ではなく、召命を支える本質的要素である。
たとえば、ある者が霊的な新たな召しを感じたとき、それを共同体がどのように受け止め、支えるかは決定的に重要である。もし共同体が「なぜ今さら」「現実を見ろ」と冷笑し、無関心であるならば、その召命は育まれることなく萎んでしまうだろう。逆に、たとえ不完全であったとしても、共に祈り、耳を傾け、分かち合い、試練の中で支え合うならば、召命は共同体の中で育まれ、確かに実を結ぶ。
この文脈において、「赦し」と「仕え合い」は決して道徳的命令ではなく、召命の構造的条件である。赦しとは、過去に縛られた関係性を解き放ち、新たな信頼の空間を開く霊的行為である。そして仕えるとは、自らの自由を他者の祝福のために用いるという選択である。これらは、教会がただの宗教組織ではなく、神の国の前味をこの地上において生きる共同体であることを示す証しとなる。
現代の世界では、自由はしばしば「責任からの解放」と理解されがちである。しかし聖霊に導かれた自由は、むしろ「仕えることへの解放」である。パウロの言葉に従うなら、「霊に導かれて生きる」とは、ただ善行を重ねることではなく、「肉の業」に抗して、互いの中にキリストを見出す努力を続けることである。そこにこそ、教会が教会である所以がある。
召命に生きるとは、孤高の聖性を目指すことではない。それは、繰り返し赦しを受け取り、仕え合いながら、信仰の道を共にする旅である。互いの弱さの中にキリストの姿を見出し、共に歩む共同体――それこそが、現代において最も説得力のある証しであり、福音の形をこの世界に現す道なのである。
典礼の色は緑である。それは、単に安定や成熟を表す色ではない。この季節において緑は、聖霊によって養われる成長のしるしである。信仰はただ芽吹くだけでは不十分であり、霊的な実を結ぶことこそが本質であると、聖霊降臨後の諸主日は繰り返し私たちに告げる。
けれど、成長とは、静的で緩慢な過程ではない。それはむしろ、断念と決断、召命と応答という切断の繰り返しを経て成立する。きょう与えられた聖書箇所はいずれも、過去との断絶を伴う召しに対して、ひとがどう応答するかを描いている。そしてその応答のかたちは、古代の預言者にも、初代教会の信徒にも、主イエスと道を共にする弟子にも、それぞれ異なる様相を帯びている。
「自由」の季節――それがこの主日のもう一つの霊的背景である。ガラテヤ書が語る「キリストによる自由」は、ただの解放ではない。むしろそこには、「愛によって互いに仕え合いなさい」という制限がある。この矛盾のような真理の内に、信仰者の成熟があるのだ。
今ここに集う私たちも、神の召命に対し、自由の霊に導かれつつ、なお振り返らずに歩む者となるよう招かれている。
召命とは、焼き尽くす決断である——エリヤとエリシャの交代劇
旧約日課の舞台は、エリヤとエリシャ、ふたりの預言者の交差の瞬間である。北イスラエルの王アハブの時代、偶像礼拝と霊的退廃が極みに達していた。エリヤはカルメル山でバアルの預言者四五〇人を退けるという壮絶な戦いを終えたが、その直後、王妃イゼベルの報復を恐れて荒野に逃げ込み、神に命を取ってほしいと懇願する。
この絶望の只中にあって、神はエリヤに対して新たな召命を告げる。「アラムの王ハザエルを油注いで立てよ。イスラエルの王としてエフを、そしてあなたの後継者としてエリシャを召し出せ」(一九・一五以下参照)。預言者の交代は、単なる世代継承ではない。それは霊的責任の委譲であり、神の言葉が途絶えぬようにするための連鎖である。
注目すべきは、エリシャの応答である。彼は十二くびきの牛を持ち、耕作の民として豊かに暮らしていた。その生活基盤を放棄し、なんと自らの牛を屠り、鋤を燃やし、民に肉を分け与えて、エリヤに従う。「焼く」という行為は、後戻りできないという決断のしるしである。農具を残したまま預言者に従えば、「やはり戻ろうか」という誘惑に抗しきれまい。エリシャはそれを断ち切る。
この姿は、信仰者にとっての召命と自由の関係を鮮やかに示している。自由とは選択肢が多いことではなく、ひとつを選びぬく決断である。神の国のために何を手放すか――その問いは、現代の私たちにとっても決して過去の物語ではない。
霊の実を結ぶ自由——キリストに従う生のかたち
「キリストは、自由を得させるために私たちを解放してくださった。だから、しっかり立って、再び奴隷のくびきを負ってはならない」(ガラテヤ五・一)。この宣言は、使徒パウロがガラテヤの教会に向けて書き送った、最も明確で力強い神学的命題のひとつである。ガラテヤの教会は、異邦人の信徒を迎え入れた若い共同体であった。そこに、「律法の実行なくして救いはない」と主張する者たちが現れ、割礼や儀式の遵守を強く迫るようになっていた。信仰による義か、それとも律法による義か――この問いは、福音の本質に関わる根源的な問題である。パウロは、律法による義を否定するのではなく、それを超えて、キリストにおいて完成された自由へと導こうとする。
だが、パウロにとって「自由」とは、いかなる意味を持つのか。それは決して「好きなように生きること」ではない。むしろ、彼はすぐさまこう続ける。「自由だからといって、肉に罪を犯させる機会とせず、愛によって互いに仕えなさい」(五・一三)。ここにこそ、キリスト教的自由の逆説的核心がある。
自由とは、自分のために生きる力ではない。他者のために仕える力である。それは、自己を放棄し、愛によって生きることによってしか得られない自由なのだ。この逆説が成り立つのは、キリストがすでに私たちのために、自らを献げてくださったからである。私たちはその恵みによって、霊のうちに歩む者とされている。
パウロは「霊の実」を九つ挙げる。「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」(五・二二〜二三)。これらはいずれも、自己実現ではなく他者との関係において実る徳である。自由の完成とは、自己中心からの解放にほかならない。そしてそれは、信仰共同体の中でこそ育まれる。
私たちは、日々の生活のなかで、この「霊の実」を結ぶ自由に生きているだろうか。愛ではなく競争、寛容ではなく正しさ、節制ではなく快楽が支配するこの時代にあって、霊の導きに従って歩むとは、容易なことではない。だが、それでもこの道を歩む者こそ、真の意味でキリストに自由にされた者である。
自由は、孤立ではなく交わりに生きる力である。信仰は、内面の平安ではなく、共に歩む者への責任である。教会は、律法による管理の場ではなく、霊によって互いに仕え合う自由の共同体である。
だからこそ、使徒パウロは、ガラテヤの信徒たちに繰り返し呼びかける。「霊の導きに従って歩みなさい」(五・一六)。それは、目に見える正義や律法を超えて、神の愛に根ざす新しい歩みである。そしてその歩みは、必ず霊の実を結ぶ。
過去に縛られた自由と、従うことの苦悩——現代の課題と召命の代償
「手を鋤にかけてから、後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」(ルカ九・六二)。主イエスがこのように語ったとき、弟子として従うとはどういうことか、その本質がまっすぐに照らし出された。信仰とは、振り返らない決断である。だが、現代を生きる私たちにとって、この「振り返らないこと」は、はたして現実的だろうか。福音書の場面では、三人の人々がイエスに従うか否かの選択を迫られている。一人は、自ら「従います」と申し出ながら、主から「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もない」と突き放される。次の人にはイエスが「わたしに従いなさい」と招くが、その人は「まず父を葬らせてください」と願う。そして三人目は、家族に別れを告げてから従うと言うが、イエスは前述の言葉で返す。
これらのやりとりは厳しすぎるようにも思える。なぜ主は、葬儀という当然の責任さえ許さないのか。なぜ主は、愛する家族に別れを告げることすら否定するのか。
だが、ここで問われているのは、家族愛や義務そのものではない。それはむしろ、「従う」と口にする者が、何を最優先にするかという霊的優先順位の問題である。神の国は、生活の傍らにあるひとつの選択肢ではなく、すべてを支配する価値の根源である。イエスに従うとは、ただ同行することではない。すべてを再配置すること、過去の自己理解を放棄することなのだ。
このような過酷な召命は、現代社会において、ますます理解されにくくなっている。私たちは「自由」を掲げながら、実際には過去の記憶、社会的な期待、役割、キャリア、関係性、あるいは自己実現の欲望に縛られている。それらは、すべて善なるもののように見えながら、神の国への全的応答を鈍らせる。
現代の信仰者にとって、召命はますます困難なものとなっている。なぜなら、私たちは「何者であるか」を他者の承認によって定義する社会に生きているからだ。SNSの中で「いいね」を得るための言葉を選び、経歴や肩書きが人格と同一視される世界において、「すべてを捨てて従う」ことは、まるで無謀な自己喪失に映るだろう。
だが、主イエスの召命は今も変わらず、私たちの耳元で語られている。「わたしに従いなさい」。この言葉は、何かを捨てさせるだけの命令ではない。それはむしろ、真に新しい自己、真に自由な生き方へと招くものである。
現代においても、主の召しに応える者はいる。かつてエリシャが農具を焼き、弟子たちが網を捨てたように、いまも人生の安定を犠牲にして福音に生きる人々がいる。彼らは「社会的には損な道」を選んだように見えるかもしれない。だが、それは霊的には最大の自由への入口である。
自由とは、もはや過去に定義された自分ではなく、神に呼び出されることによって形成される新しい自己を受け入れることである。それは「召命」と呼ばれ、「弟子となること」とも言い換えられる。決して安易ではないが、真実な道である。
共同体として召しに応える——仕え合う愛と赦しのわざ
キリストの召命は、個人に向けられた声であると同時に、教会という共同体への問いかけでもある。ひとりの信仰者が神に応答するとき、それはただ内面的な決意にとどまらず、交わりの中で生きられる証しとなっていく。ガラテヤ書においてパウロが語る「愛によって互いに仕え合いなさい」という命令は、まさにそのような信仰共同体のあり方を指し示している。召命とは、決して孤立した英雄的行為ではない。それはむしろ、共同体の中で支え合い、仕え合うことで完成される。たとえ神の呼びかけが個々の心に響いたとしても、それに応える道は、教会の中で、兄弟姉妹との関係性のうちに歩まれるのだ。エリシャもまた、ただ預言者に従ったのではなく、牛を屠り、肉を焼いて民にふるまった。「さよなら」を言う代わりに、「分かち合い」を通して、自らの決断を共同体に開示したのである。
現代の教会において、このような交わりの姿は、どれほど確かに保たれているだろうか。私たちは「召命」や「自由」という語を、あまりに個人的な霊的体験として理解していないだろうか。しかしながら、信仰の道を共に歩む者にとって、兄弟姉妹との関係は単なる背景ではなく、召命を支える本質的要素である。
たとえば、ある者が霊的な新たな召しを感じたとき、それを共同体がどのように受け止め、支えるかは決定的に重要である。もし共同体が「なぜ今さら」「現実を見ろ」と冷笑し、無関心であるならば、その召命は育まれることなく萎んでしまうだろう。逆に、たとえ不完全であったとしても、共に祈り、耳を傾け、分かち合い、試練の中で支え合うならば、召命は共同体の中で育まれ、確かに実を結ぶ。
この文脈において、「赦し」と「仕え合い」は決して道徳的命令ではなく、召命の構造的条件である。赦しとは、過去に縛られた関係性を解き放ち、新たな信頼の空間を開く霊的行為である。そして仕えるとは、自らの自由を他者の祝福のために用いるという選択である。これらは、教会がただの宗教組織ではなく、神の国の前味をこの地上において生きる共同体であることを示す証しとなる。
現代の世界では、自由はしばしば「責任からの解放」と理解されがちである。しかし聖霊に導かれた自由は、むしろ「仕えることへの解放」である。パウロの言葉に従うなら、「霊に導かれて生きる」とは、ただ善行を重ねることではなく、「肉の業」に抗して、互いの中にキリストを見出す努力を続けることである。そこにこそ、教会が教会である所以がある。
召命に生きるとは、孤高の聖性を目指すことではない。それは、繰り返し赦しを受け取り、仕え合いながら、信仰の道を共にする旅である。互いの弱さの中にキリストの姿を見出し、共に歩む共同体――それこそが、現代において最も説得力のある証しであり、福音の形をこの世界に現す道なのである。
典礼に生きる霊の自由——神の国のしるしとしての共同体的召命
「霊によって導かれているなら、あなたがたは律法の下にはいない」(ガラテヤ五・一八)。このパウロの言葉は、表面的には律法の廃棄のように響くかもしれないが、実際には霊に生きるという新しい秩序への移行を示している。それは無秩序でも、無責任でもなく、むしろ「愛によって互いに仕え合う」共同体の中において、自発的に形成される霊的秩序である。この秩序を象徴し、かつ体験させる場が、典礼である。典礼とは単なる儀式ではない。それは、神の国のリズムと交わりに、いまここで与るための霊的な場である。私たちは礼拝の中で、神の語りかけを聞き、応答し、賛美し、赦され、遣わされる。そしてそこにおいてこそ、自由に召される者としての自己を再確認することができる。
ルカによる福音書の物語において、イエスが「エルサレムに向かう決意を固めた」と記される場面は(九・五一)、まさにその典礼的転換点である。ここから主イエスは、受難と死、復活へと向かう巡礼の旅を開始される。弟子たちはその歩みに従う者とされるが、それは栄光への道ではなく、十字架を背負う旅である。
典礼のリズムもまた、私たちをこの「歩み」へと招く。主日のたびに繰り返される朗読と祈り、告白と赦し、奉献と祝福――それらは、単なる繰り返しではない。霊によって導かれる者にとって、それは生ける召命の更新である。
とりわけ、聖餐式における「記憶と現在の交差点」において、私たちは、過去に起きた主の十字架の出来事を思い起こしながら、いまここで主のからだと血にあずかる。それは、「私たちがキリストのうちにある者である」ことの霊的な確証であり、「後ろを振り返らずに歩む」ための新たな力である。
また、典礼における「告白」と「赦し」は、パウロが語る「肉の業」からの自由に直結する。怒り、嫉妬、分裂、党派心――ガラテヤ書が列挙する罪のリストは、教会共同体においてこそ露わになりうる現実である。だが、私たちはそれらを隠すのではなく、典礼の場で神の前にさらけ出すことが許されている。まさにそのことによって、自由と赦しに生きる道が開かれているのだ。
こうして見ると、典礼とは召命の再確認であり、霊によって導かれた自由の実践そのものである。説教、祈り、感謝、赦し、平和の交換――すべてが、神の国に向かう旅の途中に置かれた道標である。
「霊の実」は、個人の徳目ではない。それは共同体の典礼のうちに実を結び、互いの中にキリストを見出す信仰の実践である。だからこそ、礼拝を中心に生きることは、信仰にとって「自由を得る」ための技術ではなく、「神の国に生きる」ための霊的生活そのものである。
振り返らずに従うとは、ただ過去を断ち切ることではない。それはむしろ、典礼のうちに過去を神に委ね、現在を霊に導かれながら歩み、未来に向かって主に従うという、全時間的な生の方向転換を意味する。
希望の中で自由を生きる——祈りと召命の終わりなき道
福音は、いかなる時代にあっても「従うか否か」を問い続ける呼び声である。それは時に、厳しさを伴い、断絶を迫るように響く。だがその根には、愛と希望に満ちた招きが流れている。主イエスが「エルサレムに向かう決意を固めた」とルカが記すとき、それは単に苦難への覚悟ではない。むしろ、すべての人に救いの道を開くという神の愛の意志の明確な表明である。イエスの歩みは、断ち切る旅であると同時に、結び直す旅でもあった。かつて孤立していた者とともに食卓を囲み、罪人とされた者に赦しを告げ、サマリア人や徴税人といった社会的に切り離された人々に、神の国の現臨を分け与えていった。その旅の延長線上に、私たちの歩みも置かれている。
きょう、私たちは「自由」という語を、もう一度信仰の言葉として取り戻す必要がある。自由とは、自らの意志を最大化することではない。それは、主に呼ばれ、応答し、他者に仕えることによって、神の国にふさわしい生を選び取っていくことだ。その道はしばしば険しい。かつてエリシャが鋤と牛を焼いたように、あるいは弟子たちが網と舟を置いて従ったように、私たちもまた何かを手放すことを求められるだろう。
だが、その手放しの先に、希望がある。なぜなら、神は決して召した者を見捨てることなく、共に歩んでくださるからである。私たちの歩みが途切れそうになるとき、典礼の祈りは私たちを支え、聖書の御言葉は新たな光を注ぎ、共同体の赦しと励ましは力となる。
キリストに従う道は、一度きりの決断ではない。それは、日々新たにされる召命の歩みである。そしてその歩みは、絶え間ない「祈り」によって貫かれている。祈りとは、神との交わりに生きることであり、自由と従順の間で揺れる魂が、霊の息吹に照らされて進むための糧である。
主よ、私たちをして、過去を振り返らず、未来を恐れず、ただあなたに従う者とならせてください。あなたの霊に導かれ、日々の小さな選択の中に、神の国を証しする歩みを刻ませてください。弱さの中にもあなたの力を覚えさせてください。赦しの中に希望を見いださせてください。
私たちが、仕えることによって自由となり、愛することによって召命に生き、赦されることによってまた赦していく――そのような日々を、今ここに生きることができますように。
キリストの自由に生き、霊の実を結ぶ私たちの歩みが、神の国のしるしとなって、なお多くの人を招く光となりますように。
アーメン。