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顕現後第六主日 二〇二四年二月十六日 ▼ 教会時論「高額療養費制度の見直しと医療の公平性」他 ▼ 説教「神の国の価値観に生きる」

教会時論・説教(2024年2月16日)

+主の平和がありますように。

 皆様、厳しい寒さが続く中、いかがお過ごしでしょうか。風の冷たさが身に染みる季節ですが、こうした時だからこそ、わたしたちは神が与えてくださった交わりの恵みを改めて思い起こします。

 互いに支え合い、励まし合いながら歩むことこそ、信仰に生きる者の姿勢であり、そこにこそ神の愛が宿るのです。たとえ心も体も寒さに包まれるように思える時でも、わたしたちは神の変わることのない愛に包まれています。この恵みに感謝し、共に祈りを捧げながら歩んでいきましょう。

 本日、わたしたちは顕現後第六主日を迎えています。この時を通じて、神の国の価値観がわたしたちの日々の生き方にどれほど深く関わるのかを、改めて考える機会としたいと思います。

 今日の福音書では、「幸い」と「災い」が対比され、わたしたちが普段何気なく受け入れている価値観が、神の視点から見たときにどう映るのかを問いかけています。また、エレミヤ書では、わたしたちが何を信頼し、どこに根を下ろして生きるべきかについて、明確な指針が示されています。

 現代社会において、わたしたちが神の価値観に生きることは決して容易なことではありません。経済の不安定さや社会の不公正といった問題が日々わたしたちの目の前に突きつけられています。その中で、神の国の論理を信じ、逆境の中でも希望を見出しながら歩むことが、わたしたちに求められています。では、わたしたちはどのように神の国の価値観を実践し、日々の選択をしていくべきなのでしょうか。

 この問いに向き合うために、今週の《教会時論》では、わたしたちが神の国の価値観を持ち続けることの意義と、それを社会の中でどのように具体化していくのかを考えていきます。日々のニュースや社会の動きの中で、わたしたちが信仰に根ざした視点をどのように持ち続けることができるのか、その道筋を共に探っていきましょう。

Ⅰ 教会時論

 わたしたちは日々、社会の変化と向き合いながら生きています。社会の流れは穏やかな時もあれば、荒々しく揺れ動くこともあります。その変容は、わたしたちの価値観や生き方に影響を与え、ときに信念を問い直す契機ともなります。こうした状況の中で、信仰者として、また社会の一員として、どのような姿勢を持つべきでしょうか。今を生きる意味を深く問い直すことが求められています。

 現代社会の課題はかつてないほど複雑化し、単純な解決策では対処できなくなっています。経済の格差、医療制度の変革、環境問題の深刻化、国際関係の緊張、ジェンダー平等の課題など、多くの問題が絡み合い、わたしたちはその渦の中で確かな道を求めています。

 その道を見出すためには、単に表面的な事象を追うのではなく、その背景にある本質を見極め、福音の光に照らして理解し、応答していくことが不可欠です。

 教会時論は、こうした現代社会の動向を信仰の視点から捉え、神学的・倫理的に考察する場です。ここで取り上げるニュースは単なる時事問題ではなく、わたしたち自身の生き方に関わる問いを投げかけるものです。

 なぜこの出来事が起こったのか、わたしたちはそこから何を学ぶべきなのか、信仰の立場からどのような道筋を描くことができるのか。これらの問いをともに考え、社会の現実に向き合いながら、わたしたちの使命を見出していきます。

 「見よ、わたしは新しいことを行う。今や、それは芽生えている。」(イザヤ書43:19)

 神は、どのような困難な状況の中にあっても、新たな道を備えておられます。その道を見つけるために、今を見つめ、深く理解し、次の歩みを共に考えてまいりましょう。

1 米価高騰と備蓄米放出の影響

(1)食卓を揺るがす米価の変動

 日本人の食文化の根幹をなす米の価格は、家庭の食卓に直接的な影響を及ぼします。近年、米価が高騰し、政府はついに備蓄米の市場放出を決定しました。しかし、これは一時的な対策に過ぎず、問題の根本解決には至りません。

 気候変動による品質の低下、農業政策の歪み、流通の停滞、さらには市場の投機的な動きが複雑に絡み合い、現在の状況を生んでいます。

 昨年の異常気象の影響で収穫された米の品質が低下し、市場での供給量が減少しました。また、南海トラフ地震への懸念やインバウンド需要の増加が買い占めを引き起こし、流通の混乱を招いています。

 しかし、農林水産省の調査では、全体の生産量は平年並みを確保していることが分かっています。つまり、供給そのものが不足しているわけではなく、一部の事業者による在庫の抱え込みや市場の不安定さが価格を押し上げる要因となっているのです。

 政府は、こうした市場の混乱を鎮めるために備蓄米を放出し、米価の安定を図ろうとしています。本来、備蓄米は凶作や災害時に放出されるものであり、今回のような市場介入は異例の措置です。

 確かに短期的には価格を抑える効果が期待できますが、長期的には供給バランスが崩れ、再び価格が不安定になるリスクを伴います。

(2)持続可能な農業の構築へ

 日本の農業は、高齢化と耕作放棄地の増加という深刻な課題を抱えています。政府の減反政策によって生産量が制限され、農業の競争力が低下しました。

 さらに、肥料や燃料の価格上昇が生産コストを押し上げる一方で、農家の収入は伸び悩み、若い世代が農業を継ぐことが困難な状況となっています。このままでは、将来的に生産力が低下し、日本の食の安定が揺らぎかねません。

 欧米では、農産物の価格が下がった際に政府が補助金を支給する所得補償制度が導入されています。例えば、米国やフランスでは農家の経営を支える仕組みが整備されており、日本でも同様の政策の導入が求められます。

 農業は、単なる産業ではなく、社会全体の基盤であり、国民一人ひとりがその維持に関心を持つべき課題です。

(3)米作りに宿る恵みと責任

「見よ、種を蒔く人が種蒔きに出て行った。」(マルコによる福音書4:3)

 農業とは、自然と共に歩む営みであり、神の恵みと密接に結びついています。土地を耕し、種を蒔き、適切に管理することによって作物は実ります。

 しかし、それだけでは十分ではなく、社会全体が農業を支え、持続可能な仕組みを築くことが不可欠です。

 日々の糧に感謝しつつ、食の安定を脅かす構造的な問題にも目を向けることが求められます。政府の対策に頼るだけでなく、生産者、消費者、政策立案者が一体となって、日本の農業を守り、発展させる道を共に模索していくべきではないでしょうか。

2 高額療養費制度の見直しと医療の公平性

(1)医療制度の本質と負担増の影響

 医療は社会の根幹を支えるものであり、すべての人に等しく開かれているべきものです。しかし、政府は高額療養費制度の見直しを進め、八月から窓口で支払う額の上限を引き上げる方針を示しました。

 この変更は、低所得層への影響は比較的軽微であるものの、中間層にとっては七割以上の負担増となる場合もあり、特に長期療養を必要とする患者への影響が懸念されます。

 背景には医療費全体の高騰があります。新薬の開発により、一回の投与で数百万円に及ぶ抗がん剤や遺伝子治療薬が登場し、一部の患者にとっては医療費が月一千万円を超えるケースも増えています。こうした状況を受け、政府は「経済力に応じた負担」を求め、制度の持続可能性を確保しようとしています。

 しかし、これが果たして本当に公平な方策なのかは慎重に考えなければなりません。

(2)公平性を欠く制度改定

 問題は、負担増が特定の層に集中することです。政府は「広く負担を分かち合う仕組み」を掲げながらも、実際には長期療養が必要な患者への負担が大きくなる構造となっています。

 がんや慢性疾患を抱える人々は継続的な治療を要するため、新たな負担増は生活そのものを圧迫しかねません。経済的な理由で治療を断念する人が増えるならば、それは医療制度が本来の役割を果たしていないことを意味します。

 社会保障制度は「支え合い」の理念に基づくものであり、健康なときに保険料を納め、病気になった際に助けを受ける相互扶助の仕組みです。

 しかし、今回の見直しは「自己責任」の色合いを強めるものであり、本来の助け合いの精神が薄れつつあります。

 政府はこの見直しを少子化対策の財源確保の一環としていますが、医療費削減が社会全体の健康を損なえば、長期的には労働力の減少やさらなる医療費の増加を招く可能性があります。

 医療は「コスト」ではなく「投資」であり、その視点を欠いた政策は持続的な社会発展を阻害するものとなるでしょう。

(3)公平な医療制度への模索

 欧州諸国では、必要な治療を受けられるよう、所得に応じた柔軟な補助制度が導入されています。たとえば、フランスでは長期療養が必要な患者に対し、自己負担がほぼゼロとなる制度が設けられています。

 このような仕組みを参考にしながら、日本でも公平かつ持続可能な医療制度の在り方を再考することが求められています。

 病に苦しむ人々が経済的な理由で治療を諦めざるを得ない社会は、わたしたちが目指すべき社会ではありません。

 医療制度が本来の目的を果たし、すべての人にとって公平であるために、わたしたちはこの問題に関心を持ち、社会のあり方を問い直し、連帯をもって解決策を模索していく必要があるのではないでしょうか。

3 女性の社会進出と残る課題

(1)見えない壁——女性の活躍を阻むもの

 戦後、日本社会における女性の社会進出は、着実に進展してきました。一九四六年の女性参政権の実現を皮切りに、憲法による男女平等の明記、一九七九年の国連「女性差別撤廃条約」への加盟を経て、法制度の整備が進みました。

 しかし、依然として日本社会には「見えない壁」が存在し、女性の活躍を制限しています。これは、固定的な性別役割分業の意識、職場慣行、制度上の不備が複雑に絡み合って生じている問題です。

 今日の女性たちは、過去と比べ多くの機会を得ています。しかし、こうした機会が真に活かされる環境が整っているとは言い難いのが現実です。

 日本の女性の就業率は九割近くに達していますが、非正規雇用の割合が依然として高く、とりわけシングルマザーの多くが低賃金労働に従事せざるを得ない状況にあります。労働政策研究・研修機構の調査によれば、日本の女性の平均年収は男性の七割程度にとどまり、管理職や役員の比率も国際的に見て低水準です。

 このような状況の背景には、「長時間労働」や職場における「管理職の選抜基準」といった雇用慣行が根強く影響しています。たとえば、結婚や出産後もキャリアを継続しようとする女性にとって、「育児と仕事の両立」は依然として大きな課題です。

 女性の労働市場における「M字カーブ」現象は改善しつつありますが、その代わりに正規雇用から非正規雇用へと移行せざるを得ない「L字カーブ」という新たな問題が生じています。

(2)社会が変わるべき時

 女性の社会進出を真に推進するためには、単なる「働きやすさ」の向上にとどまらず、キャリア形成の継続性が確保される仕組みが不可欠です。

 そのためには、柔軟な労働時間制度の導入、男性の育児・家事への参画促進、企業における賃金格差の是正が求められます。欧州では、企業に対して女性役員の一定割合を義務付けるクオータ制を導入し、男女間の不均衡を是正する動きが進んでいます。

 日本においても、単なる数値目標ではなく、制度的な支援を強化することが必要です。

 また、家庭内におけるジェンダー意識の変革も不可欠です。厚生労働省の調査によれば、育児や家事の負担が女性に偏っている現状が依然として続いています。男性の育児休業取得率は上昇傾向にありますが、依然として欧米に比べると低水準にとどまっています。

 こうした意識改革と制度の整備が両輪となることで、女性が真に活躍できる環境が生まれるでしょう。

 社会の変化は、制度改革だけでなく、わたしたち一人ひとりの意識と行動にもかかっています。職場や家庭における「見えない壁」を取り除く努力を惜しまず、互いに支え合いながら歩むことが求められています。

 誰もがその賜物を活かし、尊厳を持って生きられる社会こそ、わたしたちが目指すべき未来ではないでしょうか。

4 米ロ停戦交渉とウクライナの主権

(1)戦争終結か、それとも譲歩の強要か

 ウクライナ戦争が勃発してから三年が経過し、戦況の長期化による国際社会の疲弊が深まる中、米国のトランプ大統領とロシアのプーチン大統領は停戦交渉の開始に合意しました。

 しかし、その交渉の中で、ウクライナに対し領土割譲やNATO(北大西洋条約機構)加盟の断念といった譲歩を迫る動きが見られます。

 国際法の観点からも、ロシアによるウクライナの一方的な領土侵攻は、主権国家の独立を踏みにじる行為であり、決して正当化されるものではありません。

 二〇一四年のクリミア併合以降、ロシアは力による現状変更を推し進め、今なお軍事的圧力を強めています。その中で「現実的な解決策」として、ウクライナに対し領土の一部を放棄するよう求める声が上がっていますが、これは本当に平和へとつながる道なのでしょうか。

 歴史を振り返れば、大国による一方的な領土割譲の強要が新たな紛争の火種となった例は数多く存在します。一九三八年のミュンヘン協定では、ナチス・ドイツに対しチェコスロバキアのズデーテン地方が譲渡されましたが、それは結果としてドイツのさらなる侵攻を助長しました。同じことがウクライナに対して繰り返されてはなりません。

(2)国際社会の責任と日本の立場

 ヨーロッパ諸国やEU(欧州連合)は、ウクライナの主権と領土の一体性を強く支持しています。

 もしウクライナがロシアの要求に屈し、領土割譲やNATO加盟の断念を受け入れれば、「力こそ正義」という誤った前例を生み、他の地域紛争にも悪影響を与えかねません。

 特に東アジアにおいても、その影響は計り知れず、日本の安全保障に深刻な影響を及ぼす可能性があります。

 日本はこれまで、ウクライナ支援において軍事的関与を避けつつも、経済支援や人道支援を行ってきました。しかし、今後の国際社会の動向を見据えたとき、日本は単なる支援国としてではなく、「国際秩序の維持」という観点から、より積極的な役割を果たす必要があります。

 外交は、戦争を回避し平和を築くための手段ですが、平和のための外交とは決して一方的な譲歩を意味するものではありません。不正義に対して明確な立場を示し、国際社会全体で一致したメッセージを発することこそ、真の平和への道です。

(3)平和への道を探る

「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」(マタイによる福音書5:9)

 停戦交渉が進められる中、わたしたちは単に「戦闘が止まること」を願うのではなく、そこに正義が保たれているかを見極める必要があります。正義なくして平和はありえません。

 また、ウクライナで家を失った人々、避難を余儀なくされた子どもたち、戦争によって引き裂かれた家族の痛みに寄り添うことも重要です。

 平和をつくるとは、単に戦争に反対することではなく、正義と和解をもって世界を導く責任を担うことを意味します。

 今、わたしたちはウクライナ戦争を通して、平和とは何か、正義とは何かを問われています。国際社会がこの問題にどのように向き合うのか、わたしたちもまた無関心でいることはできません。

5 希望を築くために

(1)世界の現実を見つめ、わたしたちにできることを考える

 本日取り上げた問題は、それぞれ異なる課題を扱っていましたが、共通しているのは「わたしたちがどのように生きるべきか」という問いでした。

 米価の高騰は、食の安全と農業の持続可能性を考える機会を与え、高額療養費の見直しは、医療の公平性と社会の支え合いの在り方を問うものでした。女性の社会進出の課題は、固定観念や制度が人びとの未来を左右する現実を示し、ウクライナの停戦交渉は、国際正義と平和の本質を改めて考えさせるものでした。

 これらの問題は、単なる政策や経済の問題ではなく、「人間の尊厳」と深く関わっています。食の安定、医療の保障、ジェンダー平等、国際正義——これらはすべて、人が尊厳をもって生きるために欠かせない要素です。そして、信仰もまた、人間の尊厳を守ることを求めています。

(2)信仰と行動の結びつき

 聖書には、わたしたちの生き方について示唆する多くの言葉があります。その一つに、

「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。」(マタイによる福音書22:39)

 という御言葉があります。この言葉は、わたしたちがどのように隣人と向き合うべきかを示しています。隣人とは、単に身近な人びとだけではなく、社会の中で困難に直面しているすべての人を指します。

 食の問題に直面する農家、病のために負担を強いられる患者、不当な差別にさらされる女性、戦争によって故郷を追われた人びと——彼らこそ、わたしたちが寄り添うべき「隣人」です。

 信仰とは、ただ心の中で思索し祈ることにとどまるのではなく、それを行動に移すことで真価を発揮するものです。

(3)わたしたちにできること

 世界を一人で変えることはできなくとも、小さな一歩を踏み出すことはできます。

  • 地元の農業を支援するために国産の農作物を選ぶこと

  • 医療制度の改善に関心を持ち、声を上げること

  • 女性が働きやすい環境を整えるために職場での意識改革を進めること

  • ウクライナの人びとのために祈り、支援の手を差し伸べること

 そして社会の問題に対して正しい知識を持つことも重要です。

  • 新聞や報道機関を通じて正確な情報に触れ、社会の情勢に関心を持つこと

  • 単なる感情的な反応ではなく、事実に基づいた考察を深めること

  • 地方議会や国会議員へのロビー活動を通じて、社会の問題に対する政策決定に市民の声を届けること

 これらの小さな行動の積み重ねが、やがて大きな変化につながるのです。

(4)希望を持ち続ける

「見よ、わたしは新しいことを行う。今や、それは芽生えている。」(イザヤ書43:19)

 世界には多くの困難がありますが、神は常にわたしたちと共におられ、新しい道を示してくださいます。希望とは、ただ待つものではなく、わたしたち自身が築き上げていくものです。

 それぞれの場において、できることを考え、行動し、支え合うとき、そこには神の愛が働き、新しい希望の光がともるでしょう。

 わたしたちが生きるこの世界において、どのように神の国の価値観を実践していくべきか——その問いを胸に、次の説教へと進みましょう。

Ⅱ 説教——神の国の価値観に生きる

【聖書箇所】

  • 旧約日課:エレミヤ書 第十七章五~十節

  • 使徒書:コリントの信徒への手紙一 第十五章十二~二十節

  • 福音書:ルカによる福音書 第六章十七~二十六節

はじめに——幸いと災いの間で

 本日の福音朗読であるルカによる福音書第六章十七~二十六節には、「幸いなるかな」という言葉と、「災いだ、お前たち」という対照的な言葉が語られています。いわゆる「平地の説教」の一部として、イエスは人びとに向かい、貧しい者、飢えている者、泣いている者が「幸いである」と宣言される一方で、富んでいる者、満腹している者、笑っている者に対して「災いだ」と警告されました。

 これは一見すると逆説的なメッセージに聞こえます。世の中の常識では、富や満腹、楽しみは祝福のしるしであり、貧しさや飢え、悲しみは不幸の象徴と見なされるからです。しかし、イエスの言葉は、それらの表面的な評価を覆し、神の国の価値観へとわたしたちを招き入れています。

 このメッセージは、旧約聖書のエレミヤ書第十七章五~十節とも共鳴します。そこでは、

「人間に信頼し、肉なる者を頼みとし、心が主を離れる者は呪われよ」(エレミヤ17:5)

 と記される一方で、

「主に信頼し、主を頼みとする人は祝福される」(17:7)

 と語られています。

 ここに示されるのは、何をよりどころとするかという根本的な問いです。人間の力や富、栄誉に依存する生き方は、まるで乾いた荒れ地のように命を育むことができません。しかし、神に根ざした生き方は、たとえ試練の中にあっても、豊かに実を結ぶのです。

 そして、コリントの信徒への手紙一第十五章十二~二十節では、キリストの復活の現実が語られます。

「キリストは死者の中から復活した」(1コリント15:20)

 という事実が、すべての信仰者の希望の礎です。もしこの復活がなければ、わたしたちの信仰は虚しく、わたしたちの希望もまた空しいものとなるでしょう。

 しかし、キリストが復活されたことによって、神の国の約束は確かなものとなり、わたしたちの生き方も根本から変えられるのです。

 今日の聖書箇所は、神の国の価値観、信仰者の生き方、そして復活という究極の希望についてわたしたちに問いかけています。わたしたちは何を頼りに生きているのか。どのような価値を追い求めているのか。そして、復活の希望のもとに、どのように生きるべきなのか。本日の説教では、これらのテーマを掘り下げていきたいと思います。

1 人間の限界と神の視点

 ルカによる福音書第六章十七~二十六節の中で語られる「幸い」と「災い」は、単なる道徳的な勧めではなく、神の視点から見た世界の秩序を指し示しています。

 わたしたち人間は、しばしば富や成功、社会的地位に価値を見出し、それらを祝福のしるしと見なします。しかし、神の国においては、そうした人間の評価基準が根本から覆されます。

 この逆転の思想は、旧約聖書のエレミヤ書第十七章五~十節とも深く結びついています。

「人間に信頼し、肉なる者を頼みとし、心が主を離れる者は呪われよ」(エレミヤ17:5)

 と語られているように、人はしばしば目に見える力に頼ろうとします。富や権力、知識、社会的な影響力は、人間の目には強固な拠り所のように映ります。しかし、神はそうしたものを最終的な拠り所とすることの危険性を警告されるのです。

 エレミヤは、信仰を「乾いた荒れ地の低木」と「水のそばに植えられた木」という二つのイメージで対比します(17:6-8)。

「主に信頼し、主を頼みとする人は祝福される」(17:7)

 それは「水のほとりに植えられた木」のように、乾季が来ても枯れず、常に緑を茂らせ、豊かな実を結ぶ存在です。

 ここで問われているのは、「何を頼りに生きるのか?」という根源的な問題です。

 イエスが「貧しい者は幸いである」と言われたとき、それは単に物質的な貧しさを指しているのではなく、神を頼りに生きる姿勢を示しています。富や力に依存するのではなく、神に依り頼む生き方が、神の国においては真に価値あるものとされるのです。

 反対に、「富んでいる者」、「満ち足りている者」に対する警告は、それらのものに心を囚われ、神を忘れる危険性を指摘しているのです。

 この視点は、わたしたちの現代社会にも当てはまります。わたしたちは、しばしば経済的な安定や社会的な成功を求め、それを幸福の尺度と考えがちです。

 しかし、神の視点からすれば、真の幸いとは、それらを超えたものにあります。わたしたちが神に信頼し、神の言葉に従って生きるとき、人生の価値は根本的に変えられるのです。

 わたしたちは今、何を拠り所にして生きているでしょうか。人生の不確実性の中で、わたしたちはどこに根を下ろしているのでしょうか。神は、わたしたちに問いかけています。

2 逆転する祝福と神の国の論理

 ルカによる福音書第六章の「平地の説教」には、神の国における価値観の逆転が明確に示されています。イエスは、

「貧しい人々は幸いである」(ルカ6:20)

 と語られます。ここで注目すべきは、マタイによる福音書第五章の「山上の説教」では「心の貧しい人々は幸いである」(マタイ5:3)と語られるのに対し、ルカでは単に「貧しい者」とされています。この違いは何を意味するのでしょうか。

 ルカ福音書は、神の国が具体的な社会の中でどのように実現されるかを強調しています。つまり、イエスの言葉は単に精神的な謙虚さを指すのではなく、現実の社会の中で弱い立場に置かれた人々に向けられています。

 旧約聖書においても、「貧しい者」に対する神の特別な配慮が繰り返し語られています。詩編第九篇十九節には、

「主よ、貧しい者の願いを聞き、それを力づけ、心を傾けてくださる」

 とあります。神は、社会の中で見捨てられた者、権力や富から遠ざけられた者を顧みられるのです。

 同時に、

「今飢えている人々は幸いである」(ルカ6:21)
「今泣いている人々は幸いである」

 という言葉も、単なる慰め以上の意味を持っています。これらの言葉は、神の国の完成に向けた約束を示しています。

 イエスの宣教は、神の国がすでに到来しつつあることを告げるものです。しかし、その完全な実現は未来に属しています。

 「今飢えている者」は、将来的に満ち足りる者となり、「今泣いている者」は、やがて笑う者となるのです。この視点は、キリスト教の終末論的な希望と密接に結びついています。

 一方で、イエスは

「今富んでいる者は災いである」(ルカ6:24)
「今満ち足りている者は災いである」(6:25)

 とも語られました。これは、富や満足そのものが悪であるという意味ではありません。

 むしろ、富や満足が神からの恵みとして受け止められず、それに執着し、自己中心的に生きることへの警告です。旧約聖書の伝道の書第五章九節には、

「銀を愛する者は銀に満足せず、富を愛する者は収益に満足しない」

 と記されています。富に固執することは、心を神から遠ざける原因となるのです。

 ルカによる福音書では、特に社会的な不公平と経済的な問題が強調されます。たとえば、第十六章の「金持ちとラザロ」の譬え話では、富める者が生前に快楽を享受しながらも、貧しいラザロを顧みなかった結果、死後に苦しみを受けることになります(ルカ16:19-31)。これは、富そのものが問題なのではなく、それがどのように用いられたかが問われているのです。

 ここに、神の国の論理があります。神の国では、世の中の価値観が逆転し、貧しい者が祝福され、富に執着する者が警告を受けるのです。

 このメッセージは、現代社会においても鋭い問いを投げかけます。わたしたちは、自らの富や満足をどのように用いているでしょうか。神の国の価値観に生きるとは、弱い者と共に歩み、与えられたものを分かち合う生き方をすることです。

 イエスの言葉は、単なる倫理的な教えではなく、わたしたちの生き方そのものを問い直すものです。神の国は、今ここに始まり、わたしたちの生き方を通して現されていくのです。

3 復活の希望と信仰者の歩み

 コリントの信徒への手紙一第十五章十二~二十節では、パウロがキリストの復活の確かさを力強く宣言しています。この箇所は、単なる神学的な論証ではなく、信仰の根幹に関わるものです。

 パウロは、

「もし死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったはずです」(1コリント15:13)

 と述べています。つまり、復活信仰がなければ、キリスト教そのものが成立しないというのです。

 キリストの復活は、単なる奇跡ではなく、神の国の現れそのものです。旧約聖書では、ダニエル書第十二章二節に

「多くの者が塵の中から目覚める」

 と記され、終末における復活の概念が示されています。また、イザヤ書第二十六章十九節でも、

「あなたの死者は生きる」

 と語られています。これらの預言が、イエス・キリストにおいて成就したのです。

 パウロは、

「もしキリストが復活されなかったなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあるのです」(1コリント15:17)

 と述べます。ここで示されるのは、復活が単なる出来事ではなく、人間の罪と救いに直接関わるものであるということです。キリストの復活がなければ、わたしたちは依然として罪の支配の中にある。しかし、キリストが死に打ち勝たれたことによって、わたしたちもまた新しい命に生きる希望を与えられたのです。

 復活信仰は、単なる教理ではなく、信仰者の歩みに具体的な影響を及ぼします。キリストが復活されたという事実は、わたしたちの人生に意味と方向性を与えます。わたしたちは死の恐れから解放され、希望をもって生きることができるのです。この信仰は、現実の苦難や試練を乗り越える力ともなります。

 ルカ福音書第六章の「平地の説教」で語られる「幸い」と「災い」の逆転も、この復活信仰と深く結びついています。現世における貧しさ、飢え、涙は、神の国において祝福へと変えられます。この希望こそが、信仰者の歩みを支えるのです。

 では、わたしたちはこの復活の希望をどのように生きるべきでしょうか。それは、キリストに従い、日々の生活の中で神の国の価値観を実践することです。

 パウロは、復活したキリストが

「眠りについた人たちの初穂となられた」(1コリント15:20)

 と述べています。初穂とは、収穫の始まりを示すものであり、キリストの復活がわたしたちの復活の保証であることを意味します。

 わたしたちは、この約束に生きる者として、恐れを超え、愛と希望をもって歩むことが求められています。

 この復活の希望を胸に、わたしたちは神の国の完成へと向かう旅路を続けます。

4 信仰と選択——どこに根を下ろすのか

 聖書は、信仰とは単なる知的同意ではなく、具体的な生き方の選択であると繰り返し語ります。今日の旧約日課であるエレミヤ書第十七章五~十節は、信仰のあり方を「呪われた者」と「祝福された者」という対照的なイメージで示しています。

「人間に信頼し、肉なる者を頼みとし、心が主を離れる者は呪われよ」(エレミヤ17:5)

 とあるように、人が自己の力や世の富に依存し、神を忘れるとき、その人生は荒れ果てた地のようになります。

 一方、

「主に信頼し、主を頼みとする人は祝福される」(17:7)

 と語られる者は、「水のほとりに植えられた木」にたとえられています。この木は、干ばつの年にも枯れず、絶えず実を結ぶのです。これは、詩編第一篇三節の

「流れのほとりに植えられた木」

 とも響き合うイメージであり、信仰者が神に根ざして生きることの重要性を示しています。

 この「どこに根を下ろすのか」というテーマは、ルカによる福音書第六章の「平地の説教」とも深く関わります。イエスは、

「貧しい人々は幸いである」

 と語り、神への依存こそが真の祝福をもたらすことを示されました。

 一方で、

「今富んでいる者は災いである」(ルカ6:24)

 という警告は、富そのものが悪ではなく、それに依存する生き方が危険であることを示しています。エレミヤ書の警告と同じく、物質的な豊かさが人の心を神から引き離すことがあるのです。

 この警告は、現代においても鋭い問いを投げかけます。わたしたちは、自らの力や財産、知識、社会的地位に頼りすぎていないでしょうか。経済の不安定さや世界の混乱が続く中で、どこに安心を見出すのかが問われています。

 神に根を下ろして生きることは、単に宗教的な安心感を得ることではなく、人生の方向性を根本から変える選択なのです。

 また、エレミヤ書第十七章九節には、

「人の心は何よりも陰険で、それは直らない」

 とあります。これは、人間の本性がいかに自己中心的であり、神から離れやすいかを示しています。

 しかし、神は人の心を

「探り、究める」(17:10)

 と語られます。これは、神が単にわたしたちの行いを評価するのではなく、わたしたちの内面に働きかけ、変えようとしておられることを意味します。

 信仰とは、どこに根を下ろすかの選択です。わたしたちは神に信頼し、その導きのもとに生きるとき、どのような状況の中でも枯れることなく、豊かに実を結ぶことができるのです。

5 神の国の価値観と現代社会

 イエスが「貧しい人々は幸いである」と宣言されたのは、単なる慰めではなく、神の国の価値観そのものを示すものでした。ルカによる福音書第六章の「平地の説教」では、富や成功を追い求める世の価値観と、神の国の価値観が明確に対比されています。

 現代社会では、成功とは経済的な安定、キャリアの向上、社会的地位の確立と結びつけられます。人びとは物質的な豊かさを求め、それを得ることが幸福の条件とされがちです。

 しかし、イエスの言葉は、こうした価値観に鋭い問いを投げかけます。

「今富んでいる者は災いである」(ルカ6:24)

 という言葉は、財産そのものが悪であるという意味ではありません。むしろ、それに執着することが、神の国から遠ざかる原因となるのです。

 これは、旧約聖書においても一貫して語られています。申命記第八章十七~十八節には、

「あなたの富を得る力も、主が与えられたものである」

 と記されています。つまり、富や成功は本来、神からの賜物であり、それをどのように用いるかが問われるのです。

 エレミヤ書第十七章でも、人間に依存する生き方が「呪われた者」とされる一方で、神に信頼する者は「祝福された者」とされました。これらは、どこに価値を置くかという根源的な選択を示しています。

 現代の経済システムや社会構造の中で、わたしたちはしばしば「より多くを得ることが成功だ」と教えられます。しかし、神の国の視点から見ると、真の成功とは、どれだけ所有するかではなく、どれだけ与えるかにあります。

 イエスは、

「自分の持ち物を売り払って施しなさい」(ルカ12:33)

 と語られました。これは、単に財産を手放すことを求めるのではなく、神の国の価値観に生きることを示しています。

 では、わたしたちは現代社会の中でどのように神の国の価値観を実践すべきでしょうか。それは、物質的な豊かさや成功を手段とし、他者のために用いることです。富は、わたしたちの自己実現のためではなく、神の国の働きのために与えられています。

 社会の中で正義を追求し、助けを必要とする人びとと共に歩むことが、神の国を現す生き方なのです。

 神の国の価値観は、世の価値観とはしばしば対立します。しかし、それこそが信仰の証しであり、キリスト者としての生き方の指針となるのです。

6 キリストに従う決断とその実践

 ルカによる福音書第六章の「平地の説教」は、単なる倫理的な教えではなく、キリストに従う生き方への具体的な招きです。イエスは「幸いである」と「災いである」を対比しながら、わたしたちがどのような価値観に基づいて生きるべきかを示されました。これは、単なる思想や哲学ではなく、具体的な行動へとつながるものです。

 聖書全体を通して、神に従う決断は、単に信仰を持つこと以上の意味を持っています。エレミヤ書第十七章七~八節で、

「主に信頼し、主を頼みとする人は祝福される」

 とありますが、この信頼とは、単なる観念ではなく、神の導きに応じて歩む具体的な行動を伴います。詩編第三十七篇五節にも

「あなたの道を主に委ねよ、主に信頼せよ」

 とあるように、信仰は静的なものではなく、動的なものなのです。

 イエスに従うとは、具体的にどのような実践を意味するのでしょうか。そのヒントは、イエスの弟子たちの決断に見ることができます。

 ペトロやアンデレは、イエスの

「私について来なさい」

 という言葉を聞き、すべてを捨てて従いました(マタイ4:19-20)。また、ルカ第十八章の「裕福な青年」の物語では、

「あなたの持ち物を売り払って貧しい人々に施しなさい」

 とのイエスの言葉を聞いた青年が、悲しみながら立ち去る姿が描かれています(ルカ18:22-23)。彼はイエスの言葉に納得しながらも、実際の行動には移せませんでした。この対比は、信仰が知識や理解だけではなく、決断と行動を伴うものであることを明確に示しています。

 キリストに従うとは、自分の人生の優先順位を変えることでもあります。世の価値観では、成功や富、安定が人生の目的となりがちですが、神の国の価値観に生きる者は、それらを超えた目的を持ちます。

 使徒パウロは、かつて律法学者としての地位や名誉を誇りとしていましたが、キリストに出会った後、

「それらすべてを損失とみなし、キリストを知ることの方がはるかに勝っている」(フィリピ3:8)

 と述べました。

 では、わたしたちはどのようにキリストに従う決断を実践することができるのでしょうか。それは、日々の小さな選択の中に現れます。困難な状況の中で神に信頼すること、弱い者を顧みること、自己中心的な考えを捨てること、正義のために声を上げること——これらの一つ一つの選択が、キリストに従う生き方へとつながります。

 キリストに従うことは、単に「信じる」ことに留まらず、その信仰を実践することを意味します。わたしたちが神の国の価値観に生きる決断をし、それを具体的な行動に移すとき、わたしたち自身の人生もまた変えられていくのです。

7 神の国の希望とわたしたちの使命

 ルカによる福音書第六章の「平地の説教」は、単なる倫理的教訓ではなく、神の国の到来を告げる福音です。イエスは、

「貧しい人々は幸いである」
「今飢えている人々は幸いである」

 と語られました(ルカ6:20-21)。これは、神の国がすでに始まっていることを示す言葉であり、やがてその完成に向かうことを示しています。

 パウロは、コリントの信徒への手紙一第十五章二十節で、

「しかし、今やキリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」

 と宣言しました。キリストの復活は、神の国の約束が確かなものであることを示す出来事です。わたしたちは、現在の世界の不完全さを経験しながらも、最終的な勝利が約束されていることを信じています。この希望こそが、わたしたちの生きる力となるのです。

(1)神の国の希望とは何か

 神の国とは、単なる未来の出来事ではなく、すでに始まっている現実です。イエスが地上で語られ、行われたすべての業は、神の国の到来のしるしでした。病人が癒され、罪人が赦され、社会の周縁にいた人々が迎え入れられる——これらは、神の国の現れであり、その完成に向けた前兆です。

 この希望は、わたしたちの日常にどのように関わるのでしょうか。それは、わたしたちがすでに神の国の民として生きるよう招かれているということです。たとえ世界が不完全であり、争いや苦しみがあったとしても、わたしたちは神の約束のもとに生きるのです。

「わたしたちは信仰によって歩んでおり、目に見えるものによってではありません」(2コリント5:7)

 この言葉の通り、わたしたちは神の国の現実を信じ、それに従って生きるのです。

(2)神の国に生きる者の使命

 神の国の希望は、単なる個人的な慰めではなく、わたしたちに責任を与えます。ルカ第六章の「幸い」と「災い」の対比は、神の国の価値観に生きることの選択を迫るものです。わたしたちは、富や権力に依存するのではなく、神に信頼して生きる者として召されています。

 また、神の国の福音は、わたしたちがこの世界において証しするべきものです。イエスは、

「あなたがたは地の塩である。あなたがたは世の光である」(マタイ5:13-14)

 と言われました。これは、信仰者がこの世の中で神の愛と正義を示す存在であることを意味します。

 貧しい人、傷ついた人、社会の中で取り残された人々と共に歩むことは、神の国の価値観を生きる具体的な形です。

(3)希望を持ち続ける力

 パウロが語る復活の希望は、現在の苦しみを乗り越える力を与えます。

「今は鏡にぼんやり映ったものを見ていますが、そのときには、顔と顔とを合わせて見ることになります」(1コリント13:12)

 わたしたちは今、完全に神の国を理解することはできませんが、その完成に向かって歩むように招かれています。

 信仰とは、神の国の約束を信じ、それに向かって生きることです。わたしたちはこの世界の中で神の愛を証しし、希望を持ち続ける者として生きる使命を与えられています。

結び

 本日の説教では、神の国の価値観について深く掘り下げました。わたしたちが生きる現実世界では、しばしば物質的な豊かさや社会的な地位が「幸い」の象徴として扱われがちです。しかし、イエスはわたしたちに、神の国における「幸い」と「災い」の逆転した価値観を示してくださいます。

 貧しさ、飢え、涙が祝福へと変わるというメッセージは、単なる希望の言葉ではなく、わたしたちの生き方そのものを問い直すものです。イエスの教えは、現実的な生活においてどのように神の国の価値観を実践するかを教えているのです。

 エレミヤ書第十七章では、信仰のあり方を「主に信頼する者」と「肉なる者に頼る者」の対比として示しています。この対比は、わたしたちがどのように生きるべきかを問うものです。神に信頼し、神の導きに従うことが、どんな状況においても祝福をもたらすという確信を与えています。

 また、コリントの信徒への手紙一第十五章では、復活という究極の希望が語られます。キリストの復活によって、わたしたちも新しい命へと導かれる希望を持つことができます。この希望がわたしたちの歩みを支える力となり、どんな困難な状況にも希望を見出すことができるのです。

 イエスの教えがわたしたちに伝えるのは、物質的な豊かさや社会的地位に依存することの危険性です。わたしたちが何に依存し、どこに根を下ろして生きるのか、それがわたしたちの信仰の核心となります。

 神の国の価値観は、現代社会においても非常に重要なメッセージを持っており、わたしたちはその価値観に従って生きることが求められています。

 このような視点から、わたしたちが日々の生活で神に信頼し、神の国の価値観を実践することがどれほど大切であるかを改めて考えさせられます。わたしたちは、神に依り頼み、愛と希望を持って生きることを選ばなければなりません。

 信仰とは、ただの信念にとどまらず、わたしたちの選択と行動に表れるものです。

 最終的に、神の国は現在の世界の中に、わたしたちの生き方を通して実現されていきます。わたしたちが神に信頼し、神の愛をもって互いに接することで、神の国の価値観をこの地上に示すことができるのです。そのような生き方を通して、わたしたちもまた祝福され、神の国の完成に向けて歩みを進めることができます。

 この希望と確信を胸に、わたしたちは今週も神の前に生きる者として、日々の生活において神の国の価値観を実践していきましょう。神の国が今、わたしたちの中に実現し、またわたしたちを通して広がっていくことを心から祈りつつ、歩み続けていきます。

祈りましょう

 全能の神、わたしたちの父なる神よ、あなたの御名を賛美し、あなたの御心がこの地に行われますように。わたしたちは今、あなたの御前にひざまずき、あなたの憐れみと導きを求めます。あなたの聖なる御霊がわたしたち一人一人に臨み、わたしたちがあなたの愛と真理をもってこの世を照らし、あなたの栄光を顕わにすることができますように。

 主よ、あなたはわたしたちに、あなたの国がどのようなものであるかを教えてくださいました。あなたの国は、物質的な豊かさや力を追い求めるものではなく、貧しい者、飢えている者、泣いている者が幸いであると教えられました。この逆転した価値観を、わたしたちの生活の中で実践する力を与えてください。

 社会の中で力を持つ者たちがその力をどのように用いるべきか、また、弱さや貧しさの中に神の栄光を見ることができる目を与えてください。

 神よ、わたしたちはしばしば自分の力で生きることを選び、あなたを頼りにすることを忘れがちです。しかし、あなたの御心に従い、あなたの言葉に聞き従うことが、わたしたちにとって最も大切であることを今一度心に刻みます。どうか、わたしたちの信仰を深め、日々の生活の中であなたに依り頼むことができるように、力強い支えを与えてください。

 あなたはわたしたちを愛し、あなたの国の完成に向けてわたしたちを導いてくださいます。その道を歩む力をわたしたちに与え、どんな困難があってもあなたの愛に満たされ、希望を持ち続けることができるように助けてください。あなたの国がこの地上に現れる日が来ることを信じ、その日を待ち望みつつ、今を生きる力を与えてください。

 主よ、わたしたち一人ひとりの思いをあなたに捧げます。家庭や職場、地域社会で出会うすべての人々に、あなたの愛と平和が届きますように。わたしたちの言動を通して、あなたの国の価値観が現れますように、どうかわたしたちを導いてください。

 また、社会の中で苦しんでいる人々、困難に直面している人々に、あなたの慰めと平和を与え、わたしたちがその手を差し伸べることができますように。

 最後に、わたしたちがこの世界であなたの愛を実践し、神の国の実現に向けて歩み続けることができるよう、心を一つにして祈ります。

 あなたの御心がわたしたちを通して成し遂げられますように、どうかわたしたちを用いてください。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。

 アーメン。

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