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顕現後第五主日 二〇二五年二月九日 ▼ 教会時論「政府の国連女性委への拠出拒否は何を意味するのか」 ▼ 説教「深みに漕ぎ出して」

 


教会時論・説教(2025年2月9日)

はじめに

主の平和がありますように。

 二月に入り、寒さが一段と厳しくなってまいりました。朝夕の冷え込みに加え、全国各地で降雪の知らせも届いています。この季節、体調を崩されている方もおられるかもしれません。どうぞ皆様、くれぐれもご自愛ください。

 わたしたちはこうして、神の家に集まり、共に祈り、御言葉に耳を傾けることが許されています。この恵みに深く感謝しつつ、今日の説教を始めたいと思います。

 本日は顕現後第五主日を迎えました。顕現節は、主イエスが神の栄光を現されたことを記念する時であり、東方の学者たちが幼子イエスを拝みに来たこと、洗礼者ヨハネによる洗礼を受けたときの天からの声、そしてカナの婚礼での奇跡といった出来事を通して、イエスが神の子として顕されることを祝います。

 そして、今日の聖書箇所もまた、イエスがその神の力を示される場面です。ゲネサレト湖のほとりで群衆に語られた主は、漁に出るよう命じ、大漁の奇跡を通してシモン・ペトロを招かれました。

 この出来事は、単なる奇跡の物語ではなく、信仰の旅路における召命と従順の意味を深く問いかけるものです。

 今日の説教では、「深みに漕ぎ出して」というテーマのもと、わたしたちが神の言葉にどのように応答するべきかを共に考えてまいりましょう。

 イエスはシモンに対して「恐れることはない」と語られました。この言葉は、時代を超えてわたしたちにも響くものです。

 信仰の歩みは、未知の領域へと踏み出す勇気を必要とします。現代社会においても、わたしたちは不安や恐れにとらわれることが多々あります。

 しかし、主の言葉に従うとき、そこには新しい使命があり、恵みがあります。

 この説教を通して、わたしたち一人ひとりが「深みに漕ぎ出す」勇気を持ち、主の招きに応えていけるよう、心を開いて御言葉に耳を傾けてまいりましょう。


Ⅰ 教会時論

1 信仰と社会の接点を問う

 わたしたちは日々、社会の動向と向き合い、その変容に応じて己の信念を問い直す時を持ちます。

 時に、社会の激動がわたしたちの心に深い影響を与え、これにどのように向き合うべきかが問われるのです。

 本日は、目の前に広がる社会の現実を見つめ、その中でわたしたちが果たすべき役割について共に考えてみたいと思います。

2 日本の国際的信用が揺らぐ——政府の国連女性委への拠出拒否は何を意味するのか

 今回の日本政府の決定は単なる外交上の駆け引きではなく、日本が掲げる「法の支配」「国際協調」「人権尊重」という原則が揺らいでいることを示している。

 国連女性差別撤廃委員会(CEDAW)は、女性の権利をめぐる世界的な基準を確立し、各国の取り組みを監視する役割を担う。その勧告に対して、日本は経済的な対抗措置を取ることで、自国の立場を強調しようとしているが、このような対応は、「国際法を誠実に遵守する」とする憲法九八条二項の精神と矛盾しないだろうか。

 女性差別の問題は、単なる伝統や文化の問題ではなく、人間の尊厳の問題である。日本の皇位継承制度が性差による制約を設けていることは、国際的な視点から見れば「女性差別」と解釈される可能性が高い。

 しかし、問題はそこにとどまらない。この決定が象徴するのは、日本政府が「人権」という普遍的価値をどこまで本気で受け止めているかという根本的な問いである。

 日本には未だに男女間の賃金格差、女性議員の少なさ、選択的夫婦別姓の未実現など、男女平等に関する多くの課題がある。こうした問題を放置したまま、日本が国際社会で「人権を尊重する国」としての信頼を得られるだろうか。

 キリスト教の教えは明確である。

 「あなたがたは、すべてキリストにあって一つだからです。」(ガラテヤの信徒への手紙三章二十八節)

 神の前では、男性も女性も等しく尊い。信仰者として、社会における公正さを求め、差別の解消に向けた対話を促すことは、わたしたちの責務である。

3 民主主義の危機——SNS選挙戦の歪みと公正性の喪失

 SNSはかつて「民主主義の新たな希望」として語られた。市民が自由に情報を発信し、権力の監視が可能になる。しかし今や、偽情報や扇動的な投稿が氾濫し、選挙の公正性を脅かす凶器ともなっている。

 真偽の定かでない情報が瞬時に拡散し、候補者のイメージを操作する力を持つ。その結果、有権者が正確な判断を下せなくなり、民主主義そのものが歪められてしまう。

 さらに、日本では「二馬力選挙運動」問題が浮上している。本来、選挙は候補者が自らの信念を訴える場であるべきだが、現実には当選を目指さない者が他の候補の支援に回ることで、選挙の公平性が損なわれている。

 選挙カーの台数、ビラの配布枚数などに制約がある中で、こうした手法が用いられることで、ルールを守る者が不利になり、結果として政治の透明性が失われてしまう。

 聖書はこう語る。

 「あなたがたの言葉を、はいははい、いいえはいいえとしなさい。」(マタイによる福音書五章三十七節)

 選挙とは、まさに「真実を語る場」でなければならない。しかし、現実には、虚偽情報が氾濫し、政治家が自らの信念よりも戦略を優先する状況が生まれている。

 このままでは、日本の民主主義は形骸化し、国民の政治不信をさらに深めることになりかねない。

4 暴言か、国家戦略か——「ガザ所有」発言が世界に与えた衝撃

 トランプ前大統領の「ガザは米国が所有し、住民を強制移住させる」との発言は、単なる失言ではなく、国際法と人間の尊厳を真っ向から否定するものである。

 この発言が危険なのは、戦争を「経済開発」の名の下に正当化しようとする思考が透けて見えるからだ。ガザの人々は、1948年のイスラエル建国時に家を追われた難民であり、すでに歴史的な迫害を受けてきた。彼らをさらに強制移住させるという考えは、明らかな国際人道法違反である。

 では、なぜこのような発言が飛び出したのか。それは、力による現状変更を容認する風潮が、国際社会に広がっているからだ。ロシアによるウクライナ侵攻、中国の南シナ海への軍事的拡張など、各国が「国際法を無視すること」を正当化し始めている。

 この中で、アメリカの指導者が「領土を勝手に所有する」という発想を示したことは、世界の秩序を根底から揺るがす危険性をはらんでいる。

 聖書にはこうある。

 「正義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神と共に歩むこと。」(ミカ書六章八節)

 国際関係においても、わたしたちは正義を追求し、すべての人々の尊厳を尊重するべきである。遠い地の出来事だからといって無関心ではいられない。

 日本もまた、難民問題や戦争被害者支援の面で、どのように貢献できるのかを考え、行動を起こすべき時である。

5 信仰者としての応答

 本日取り上げた社会の諸問題は、わたしたちが信仰をもって生きる上で避けて通れないものでした。

 国際機関との関係を巡る日本政府の対応、SNSによる情報操作の危険性、そして中東の紛争と人権の問題——いずれも、社会正義と人間の尊厳に深く関わる課題です。

 これらを単なる政治問題と捉えるのではなく、神の目から見たときにどのように理解し、どのような態度を取るべきかを考えることが、わたしたち信仰者に求められています。

 聖書にはこうあります。

 「偽りを捨て、おのおの隣人に真実を語れ。」(エフェソの信徒への手紙四章二十五節)

 わたしたちは、社会の不公正を直視し、誠実に語る責任を負っています。情報が溢れ、真偽の判断が難しくなる時代にあっても、信仰のうちに真実を求め、隣人に対して正直であることが大切です。

 また、聖書はこうも語ります。

 「正義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神と共に歩むこと」(ミカ書六章八節)

 わたしたちはこの御言葉に従い、社会の中で正義を実践し、平和を求める者でありたいと願います。

 本日の講話を通じて、わたしたちがこの世界の課題にどう向き合い、どのように信仰を生きるべきかについての一つの指針を示せたなら幸いです。

 主の導きのもと、互いに支え合いながら、よりよい社会の実現のために歩んでまいりましょう。


Ⅱ 説教——深みに漕ぎ出して

【聖書箇所】

  • 旧約聖書日課:士師記 第六章十一〜二十四節

  • 使徒書:コリントの信徒への手紙一 第十五章一〜十一節

  • 福音書:ルカによる福音書 第五章一〜十一節

1 湖のほとりでの出会い——神の言葉の力

 イエスがゲネサレト湖の岸辺に立たれたとき、群衆が押し寄せ、彼の言葉に耳を傾けようとしていました。彼らは神の言葉を求める飢え渇きを抱え、心を満たそうとイエスのもとに集まったのです。

 この光景は、旧約聖書における神の言葉の重要性と響き合います。創世記において、神の言葉は「光あれ」(創世記一章三節)という宣言によって宇宙を形作り、預言者たちを通して人々に希望と裁きをもたらしました。

 イエスの教えもまた、単なる道徳的な訓戒ではなく、天地創造の言葉と同じく、人々を新しく造り変える力を持つものです。

 イエスが語る場所として選ばれた湖は、神の言葉がどのように世界に広がるかを象徴しています。水面は時に穏やかであり、時に荒れ狂いますが、その中に舟が浮かび、言葉が運ばれるのです。

 詩編一〇七篇二三〜三〇節には、「海にくだり、大水の上で商いをする人々」に対して、神が風を起こし、彼らの舟を翻弄させ、最後には静める場面が描かれています。

 ゲネサレト湖の光景は、まさにこの詩編のヴィジョンを想起させます。人々は人生の荒波の中で神の言葉を必要とし、その言葉こそが心の嵐を鎮める力となるのです。

 この場面の象徴的な意味は、現代の教会生活にも深く結びついています。今日、多くの人々が不安や混乱の中で生きており、真理を求めています。

 しかし、神の言葉を聞こうとする姿勢なしに、真理に触れることはできません。湖畔に集まった群衆のように、わたしたちも神の言葉を求め、それを受け入れる姿勢が必要です。

 教会は、この湖のように神の言葉を運ぶ場であり、牧者たちは舟に乗ったイエスのように、御言葉を届ける使命を担っています。

 こうして、湖のほとりでの出会いは単なる歴史的出来事ではなく、神の言葉がどのように人間の心を動かし、新しい歩みへと導くかを示しています。

 わたしたちは、神の言葉を求める群衆のように、心から飢え渇き、真理に耳を傾ける者でありたいと思います。

2 深みに漕ぎ出す信仰——神の言葉に従う勇気

 イエスがシモンに向かって「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」(ルカ五章四節)と命じた場面は、単なる漁の指示ではなく、信仰の本質を表す神学的なメッセージを含んでいます。

 シモンは経験豊かな漁師であり、夜通しの労働にもかかわらず何の収穫も得られませんでした。その彼に対して、イエスはあえて昼間の時間帯に漁をするよう命じられます。

 これは、漁の常識を超えた行為であり、人間的な論理を超えた信仰の挑戦を象徴しています。

 聖書において、「深み」や「水」はしばしば神の御業が示される場面として登場します。

 創世記一章二節では、「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」と記されています。水の深みは、人間の力では制御できない領域であり、神の創造と摂理の場なのです。

 また、詩編一〇七篇二四〜三〇節では、海の深みにおける神の支配が強調され、神が嵐を静め、人々を目的地へと導くことが詠われています。

 このように、深みに漕ぎ出すことは、神の働きを信じ、その導きに従うことを意味します。

 シモンの返答に注目すると、「先生、わたしたちは夜通し苦労しましたが、何も獲れませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」(ルカ五章五節)と語っています。

 彼は自らの経験に基づく現実を知りつつも、イエスの言葉に従う決断をします。ここに信仰の本質があります。

 信仰とは、目に見える状況や経験ではなく、神の言葉に従うことによって成長するものです。

 ヘブライ人への手紙十一章一節には、「信仰とは、望んでいる事柄を保証し、目に見えない事実を確認するものです」と記されています。

 シモンの行動は、この信仰の原則を実践する姿そのものです。

 この「深みに漕ぎ出す」という命令は、現代に生きるわたしたちの信仰生活にも適用されます。

 神は時に、わたしたちに未知の領域へ踏み出すよう求めます。それは新たな使命、試練、あるいは価値観の転換かもしれません。

 人間的な計算では不可能に思えることでも、神の言葉に従うことで新しい可能性が開かれるのです。

 ペトロが水の上を歩いた(マタイ十四章二十九節)ように、信仰は神の言葉に支えられるときにこそ、奇跡を生むのです。

 わたしたちもまた、神の御言葉に信頼し、恐れを超えて「深みに漕ぎ出す」勇気を持ちたいと思います。

 信仰とは、安全な岸辺に留まることではなく、神の言葉に従って前進し、未知の領域へと進むことなのです。

3 罪深い者への召命——神の聖なる臨在に直面する人間

 大漁の奇跡を目の当たりにしたシモン・ペトロは、イエスの足元にひれ伏し、「主よ、私から離れてください。私は罪深い者なのです」(ルカ五章八節)と告白します。

 この言葉は、単なる驚きや畏敬の念を超えて、人間が神の聖なる臨在に直面したときの深い霊的体験を示しています。

 聖書において、神の栄光に直面した者が自らの罪を告白する例は数多く見られます。

 たとえば、イザヤ書六章五節において、預言者イザヤは主の御座の幻を見たとき、「災いだ、私は滅ぼされる。私は唇の汚れた者」と叫びました。

 また、ヨブ記四十二章六節では、ヨブが神の偉大さを悟ったとき、「塵と灰の中で悔い改めます」と告白しています。

 これらの例と同様に、ペトロの告白もまた、人間の有限性と罪深さを痛烈に自覚する瞬間です。

 ここで注目すべきは、シモン・ペトロが「主よ」と呼びかけていることです。ルカ五章の前半では、彼はイエスを「先生」(エピスタタース)と呼んでいましたが、大漁の奇跡を見た後は「主」(キュリオス)と呼びます。

 これは、イエスに対する認識が根本的に変わったことを示しています。

 キュリオスという言葉は、旧約聖書のギリシャ語訳(七十人訳聖書)において、神の御名(ヤハウェ)の訳語として用いられることがあり、ここではイエスを単なる教師ではなく、神の力をもつ存在として認識したことが明らかです。

 ペトロの「私から離れてください」という言葉は、神の前に立つ人間の本質的な反応を表しています。

 神の聖なる臨在に直面したとき、人間は自らの罪深さを自覚し、その聖さに耐えられないと感じるのです。

 しかし、イエスはこの言葉を退けず、「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」(ルカ五章十節)と宣言されます。

 この言葉は、神の召命が人間の罪深さを理由に取り消されるものではないことを示しています。むしろ、神は罪を自覚した者こそを召し、その罪深さを超えて新しい使命を与えるのです。

 この原則は、聖書全体を通して一貫しています。

 モーセは口下手であることを理由に召命を拒みました(出エジプト記四章十節)、ギデオンは自らを「イスラエルで最も小さい者」と述べました(士師記六章十五節)。しかし、神はそのような者たちを選び、彼らを神の計画の道具として用いられました。

 ペトロもまた、自らを「罪深い者」と告白しましたが、その彼こそが後に教会の礎となる使徒として召されたのです。

 このシーンは、現代に生きるわたしたちにも示唆を与えます。

 わたしたちもまた、神の臨在を前にするとき、自らの不完全さや弱さを痛感します。しかし、神はわたしたちの罪や弱さを超えて召しを与え、働きを委ねられます。

 わたしたちが神の前に謙虚になり、神の赦しを受け入れるとき、神の働きに参与する者として新しく造り変えられるのです。

4 すべてを捨てて従う——召命への応答としての離別

 シモン・ペトロとその仲間たちは、イエスの言葉を聞き、大漁の奇跡を目の当たりにした後、「舟を岸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った」(ルカ五章十一節)と記されています。

 この短い一文の中に、信仰者が神の召命に応答するために何を手放し、どのような決断をするかが示されています。

 聖書の中で「すべてを捨てる」ことは、神への献身の表現としてしばしば登場します。

 アブラハムは、神の召命を受けて故郷を離れ(創世記十二章一節)、エリシャはエリヤの召命に応えて自分の耕していた牛を焼き、家族を後にしました(列王記上十九章二十一節)。

 また、新約聖書では、裕福な青年が「あなたの財産を売り払い、私に従いなさい」(マルコ十章二十一節)というイエスの言葉を聞きながら、悲しみながら立ち去る場面があります。

 この青年は、財産という執着を捨てることができなかったために、神の召命に応えられませんでした。

 シモンたちが「すべてを捨てた」という表現には、単なる職業の放棄以上の意味があります。

 漁師としての生業だけでなく、それまでの人生の価値観、安定、家族とのつながり、社会的な立場なども手放すことを意味しています。

 彼らの決断は、一種の「離別」であり、神との新しい関係を築くための「新しい創造」(二コリント五章十七節)への入り口でもありました。

 これは、信仰が単なる内面的な決意ではなく、実際の行動を伴うものであることを示しています。

 しかし、ここで重要なのは、神が召命を与えた者に、捨てるだけでなく新しい使命を授けるということです。

 イエスはシモンに「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」(ルカ五章十節)と語られました。

 「人間をとる漁師」とは、単なる言葉の比喩ではなく、神の国のために人々を導く新しい使命の象徴です。

 つまり、「捨てること」は自己否定ではなく、新しい神の計画に参与するための準備なのです。

 現代において「すべてを捨てる」とは何を意味するのでしょうか。

 それは、文字通り物質的な財産を捨てることではなく、自己中心的な価値観や、神の召命に対する恐れを手放すことを指します。

 信仰の歩みの中で、神は時にわたしたちに「今の生き方を変えよ」と呼びかけます。

 それは、安定を捨てることかもしれませんし、社会の評価を超えて信仰に生きる決断かもしれません。

 シモンたちは、「すべてを捨てて」従ったことで、新しい使命を受けました。

 わたしたちもまた、神の召命に応じるとき、過去に固執するのではなく、神の導きの中で新しい道を歩む勇気を持つ必要があります。

 それは決して後悔するものではなく、神が豊かに備えてくださる新たな生き方への門出となるのです。

5 現代における「深みに漕ぎ出す」——信仰と社会の交差点

 シモン・ペトロがイエスの命令に従い、沖へと舟を漕ぎ出した出来事は、わたしたちの信仰生活における重要な指針を与えています。

 「深みに漕ぎ出す」という言葉は、単なる漁の行為を超えて、信仰者として神の召命に応じ、未知の領域に進むことを象徴しています。

 この召命は、単に個人的な霊的成長の問題ではなく、社会の中で神の国を証しするという広範な使命と関係しています。

(1)信仰とリスクの関係

 イエスの言葉に従い、深みに漕ぎ出したシモンたちは、常識を超えた信仰の挑戦に身を置きました。

 彼らは夜通し漁をして成果がなかったにもかかわらず、あえて再び網を降ろしました。この行為は、リスクを伴う信仰の決断を象徴しています。

 現代社会においても、信仰を生きることは決して容易ではありません。職場、学校、家庭において、わたしたちの信仰は時に周囲の価値観と衝突し、誤解や批判を受けることもあります。

 しかし、深みに漕ぎ出すとは、そうした困難を恐れずに信仰を実践することを意味します。

 ヘブライ人への手紙十一章六節には、「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません」と記されています。

 神に従うことは、常に人間的な安全圏にとどまることではなく、神の言葉に信頼して一歩を踏み出す勇気を伴います。

 シモンがイエスの言葉に従い、大漁を経験したように、わたしたちも信仰をもって未知の領域へ進むとき、神の豊かな恵みを体験するのです。

(2)現代社会における「深み」

 では、現代における「深みに漕ぎ出す」とは具体的に何を意味するのでしょうか。

 それは、社会の中で神の愛と正義を証しすることです。

 現代は、不安定な経済状況、環境問題、社会的分断など、多くの課題に直面しています。

 教会は、これらの問題に対して無関心であってはならず、信仰をもって積極的に関わるべきです。

 例えば、社会的弱者への支援、平和と和解のための活動、環境保護への取り組みなどは、キリストの愛を実践する「深みに漕ぎ出す」行為の一つです。

 聖書は「正義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神と共に歩むこと」(ミカ書六章八節)を求めています。

 この言葉は、信仰が個人の内面的なものにとどまらず、社会において積極的な役割を果たすべきことを示しています。

(3)信仰による変革の力

 深みに漕ぎ出すことは、また、自己変革のプロセスでもあります。

 わたしたちは時に、自らの限界や過去の失敗を理由に、新しい挑戦を恐れることがあります。

 しかし、イエスは「恐れることはない」(ルカ五章十節)と語られました。この言葉は、わたしたちが不安や疑いを超えて、神の導きに信頼するよう促しています。

 使徒パウロもまた、自らの過去を乗り越えて神の召命に応じました。彼はかつて教会を迫害する者でしたが、キリストとの出会いを通して、異邦人伝道の偉大な使徒へと変えられました(使徒言行録九章)。

 わたしたちもまた、神の恵みによって変えられ、新しい使命に生きることができます。

(4)教会共同体としての「深み」

 信仰生活は個人的なものだけではなく、教会共同体としての歩みでもあります。

 わたしたちは一人で信仰の旅をするのではなく、互いに支え合いながら神の国を証しする使命を担っています。

 初代教会の人々は、互いに助け合い、持ち物を共有しながら生きていました(使徒言行録二章四十四〜四十五節)。

 この姿勢は、現代においても教会が社会の中で光となるための指針となります。

 現代の教会にとって、「深みに漕ぎ出す」とは、信徒がそれぞれの場で福音を証しし、愛と奉仕の精神をもって社会に関わることです。

 それは決して容易な道ではありませんが、神の召命に応じる者は、決して独りではありません。

(5)未知の領域へと進む勇気を持つこと

 深みに漕ぎ出すとは、未知の領域へと進む勇気を持つことです。

 それは、神の言葉に信頼し、自己の限界を超えて新しい使命へと応えることです。

 現代社会のさまざまな課題に対して、信仰者としてどのように関わるべきかを問い直し、具体的な行動へと移していくことが求められています。

 シモン・ペトロがイエスの言葉に従ったように、わたしたちもまた、神の導きに信頼し、信仰の旅路を歩んでいきたいと思います。

6 神の召しに応える——使命への応答と変容

 ルカによる福音書五章の物語は、単なる奇跡譚ではなく、神の召命に対する人間の応答を示す重要な教えを含んでいます。

 シモン・ペトロとその仲間たちは、「すべてを捨ててイエスに従った」(ルカ五章十一節)と記されています。

 ここには、神の召命に応じることがどのような変容をもたらすのか、また、それがどのような使命へとつながるのかが示されています。

(1)召命とは何か

 聖書全体を通じて、神の召命は特定の人々に与えられるのではなく、すべての信仰者に対して与えられるものです。

 召命(コーリング、καλέω)は、単に職業的な使命を意味するのではなく、神との関係の中で生きることへの招きでもあります。

 旧約では、アブラハムが召されて信仰の旅を始め(創世記十二章一節)、モーセが燃える柴の中で神の声を聞いてイスラエルの解放者となりました(出エジプト記三章四節)。

 新約では、ペトロやパウロのように、人生を根本的に変えられた人々が数多く登場します。

 シモン・ペトロの召命は、特に注目すべきものです。

 彼はイエスに出会う前、ただの漁師でした。しかし、イエスとの出会いが彼の人生の方向性を完全に変えました。

 彼はガリラヤ湖での生活を捨て、キリストの福音を宣べ伝える者へと変えられたのです。

 この変化は、召命とは単なる職業の転換ではなく、人間の存在そのものの変容を意味することを示しています。

(2)召命は恐れを伴うもの

 神の召命に応じることは、時に恐れや躊躇を伴います。

 シモン・ペトロは、イエスの奇跡を目の当たりにしたとき、「主よ、私から離れてください。私は罪深い者なのです」(ルカ五章八節)と叫びました。

 これは、神の偉大さと自らの限界との間にあるギャップを痛感した瞬間です。

 多くの召命の物語において、人々は自らの不適格さを訴えます。

 モーセは「私は雄弁ではありません」(出エジプト記四章十節)と言い、エレミヤは「私は若すぎます」(エレミヤ書一章六節)と躊躇しました。

 しかし、神の召命は、完璧な人間を求めるものではありません。

 むしろ、自らの弱さを知る者こそが神の力に頼ることを学び、神の業に参与することができるのです。

 シモン・ペトロに対して、イエスは「恐れることはない」(ルカ五章十節)と語られました。

 この言葉は、神が召した者に対していつも語られる励ましの言葉です。

(3)召命は新しい生き方を生み出す

 シモン・ペトロは「人間をとる漁師」となるよう召されました。

 これは単なる比喩ではなく、彼が新しい使命を担うことを示しています。

 「漁師」としての彼の技術は無駄になるのではなく、新しい形で用いられることになりました。

 神の召命は、わたしたちの過去を無にするのではなく、それを生かして新しい使命へと導くのです。

 このことは、現代のわたしたちにとっても重要な示唆を与えます。

 わたしたちはしばしば「召される」とは、自分の生活をすべて捨て、未知の地へ行くことだと思いがちです。

 しかし、神の召しは、必ずしも職業や環境を劇的に変えるものではなく、むしろ今いる場所で新しい意味と目的を持って生きることを促すものです。

 仕事や家庭、地域社会の中で、わたしたちは「人間をとる漁師」として神の愛を証しすることができます。

(4)教会としての召命

 召命は個人のものだけではなく、教会全体にも与えられています。

 教会は、神の言葉を宣べ伝え、愛と正義を実践する共同体です。

 シモン・ペトロをはじめとする弟子たちは、イエスの死と復活の後、初代教会を形作る重要な役割を果たしました。

 ペトロは五旬節の日に大胆に福音を宣べ伝え(使徒言行録二章)、教会の礎としての使命を担いました。

 現代の教会もまた、社会の中で福音を証しし、人々に神の愛を伝える使命を担っています。

 今日の世界において、教会はどのように「深みに漕ぎ出し」、神の召命に応えるべきでしょうか。

 貧しい人々への奉仕、平和と正義の実現、地域社会への関わりなど、多くの課題があります。

 しかし、シモン・ペトロがそうであったように、教会もまた恐れを超えて召命に応じることが求められています。

説教の結び

 神の召しに応えることは、人生の方向性を根本的に変える決断を意味します。

 それは恐れや不安を伴うものですが、神の導きのもとに、新しい使命が与えられます。

 シモン・ペトロがイエスに従い、教会の礎となる使徒へと変えられたように、わたしたちもまた神の召命に応じ、新しい生き方へと招かれています。

 神の召命は、特別な人々にだけ与えられるものではなく、すべての信仰者に開かれています。

 わたしたちもまた、日々の生活の中で「深みに漕ぎ出し」、神の導きに信頼しながら生きる者でありたいと思います。

まとめ

 本日の聖書箇所を振り返ると、そこには三つの重要なテーマが浮かび上がります。

 第一に、イエスが湖のほとりで語られた「神の言葉の力」です。

 群衆は神の言葉を求め、飢え渇きを覚えながらイエスのもとに集まりました。

 現代に生きるわたしたちもまた、多くの不安や課題の中で、真理の言葉を求めています。教会は、神の言葉を届ける場であり、わたしたちはその証人としての役割を担っています。

 第二に、「深みに漕ぎ出す信仰」です。

 シモンは夜通し漁をして何も得られなかったにもかかわらず、イエスの言葉に従いました。人間的な計算では理解できないことも、神の言葉に従うことで大きな恵みがもたらされることを示しています。

 これは、わたしたちが神の召命にどのように応答するかという問いかけでもあります。

 現代において「深みに漕ぎ出す」とは、信仰の実践を通して社会の課題に向き合うこと、あるいは自らの限界を超えて新しい使命に生きることを意味します。

 第三に、「罪深い者への召命」です。

 シモン・ペトロは、自らの罪深さを悟り、「主よ、私から離れてください」と叫びました。

 しかし、イエスは彼を拒むことなく、新しい使命を与えられました。神の召しは、わたしたちの弱さを超えて働きます。

 わたしたちがどれほど不完全であろうと、主はわたしたちを用い、神の国のために働く者としてくださるのです。

 現代社会において、わたしたちは不確実な未来に向き合い、信仰をもって生きることの困難さを感じることがあるかもしれません。

 しかし、イエスの「恐れることはない」という言葉は、わたしたちへの励ましでもあります。

 わたしたちは安全な岸辺にとどまるのではなく、主の言葉を信じ、深みに漕ぎ出す勇気を持つよう招かれています。

 教会の使命は、この世界において神の愛と正義を証しすることです。

 社会の不公正を見過ごさず、隣人を愛し、真実を求める歩みこそが、わたしたちの召命の一部です。

 今日の「教会時論」で扱われたように、わたしたちは社会の中でどのように信仰を生きるべきかを問われています。

 情報の氾濫する時代において、正義と誠実を持って生きることが求められています。

 わたしたちが神の導きに信頼し、互いに支え合いながら、信仰の道を歩んでいくことができますように。

祈りましょう

 恵み深い神よ、

 あなたの御言葉はわたしたちの光であり、導きであります。

 今日、わたしたちはシモン・ペトロの召命の物語を通して、あなたがわたしたちをどのように招いておられるかを学びました。

 どうか、わたしたちが恐れを超え、信仰をもって深みに漕ぎ出すことができますように。

 この世界には、多くの不安や困難が満ちています。

 わたしたちが正義を求め、隣人を愛し、真実に生きることができますように。

 情報が錯綜する時代にあって、偽りに惑わされることなく、真実を見極める目を与えてください。

 社会の中で、苦しむ人々、声を上げることができない人々のために、

 わたしたちがあなたの愛と希望を届ける器となれますように。

 世界の平和のために、わたしたちの小さな働きがあなたの御業につながりますように。

 主イエス・キリストによってお願いいたします。

 アーメン。

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平和と正義のために祈り、歩む教会へ 《自由と友愛の独立カトリック教会大主教寄稿文》

見過ごせない現実と、信仰からの問いかけ  今の日本を見つめると、長いあいだ変わらぬ政治のかたちと、それに伴う新自由主義的な政策が、社会の隅々にまで深く根を下ろしているのを感じます。その結果、豊かさが一部に集中し、生活の不安や孤立感を抱える方が後を絶ちません。特に声を上げにくい立場にある人たちの苦しみは、表には出にくい分、いっそう深く、重く積み重なっているように思えます。  それでも、わたしたちは希望を捨てません。信仰は、ただ現実を嘆くためのものではないからです。むしろ、人間の限界や弱さを知りながら、それでも変わらぬ神の愛と正義を信じる――その確かさに、私たちは支えられています。 憲法第9条と、平和を生きる勇気  日本国憲法の第9条は、戦争の悲惨な記憶を受けとめ、「武力ではなく対話によって平和を築こう」と決意した国民の思いを、かたちにしたものです。この条文が語る理念は、国際社会の中でも特別な価値をもつ、貴い約束だと、わたしたちは受け止めています。  もちろん、今の世界は決して平穏ではありません。多くの国で安全保障への関心が高まり、「軍備強化」という言葉が当たり前のように語られています。しかし本当にそれだけが、わたしたちの選ぶべき道なのでしょうか。  イエスさまはこう教えてくださいました――  「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ5:9)  争わない選択をする勇気、対話をあきらめない忍耐。それこそが、神に呼ばれた民としての責任であり、日本が示せるもう一つの道なのではないでしょうか。 格差と向き合う信仰――尊厳ある暮らしのために  今の日本では、働いても報われないという声をよく聞きます。非正規雇用や孤立した老後の不安、都市と地方のあいだに広がる格差……。それはただの数字ではなく、日々を生きる人たちの痛みの現れです。  イエスさまは言われました――  「飢えていたとき、あなたたちは食べ物を与えた」(マタイ25:35)  目の前の苦しみに気づかぬふりをすることは、キリスト者として見過ごせない態度です。富や機会は、神がすべての人に与えてくださった恵みであるならば、それを分かち合い、支え合う社会を築くことこそ、信仰に生きる道だと思うのです。 地球と共に生きる――神の創造を守る責任  自然の恵みの中で生きているわたしたちは、地球を「自分たちのも...

大斎節第一主日 二〇二五年三月九日 ▼ 教会時論「国際女性デー50年——意識と制度、変革のとき」他 ▼ 説教「荒野を越えて、御言葉に生きる」

  教会時論・説教(2025年3月9日)  わたしたちは日常を生きる中で、時代が刻む痛みや揺れ動く社会の声をどれほど受け止めているだろうか。世の中に溢れるニュースは、決してわたしたちと無縁ではない。  社会の変容や事件の深層には、わたしたちが信じる価値や良心を絶えず揺さぶり、問い直す力がある。今週もまた、わたしたちは目を背けることができない出来事を目の当たりにした。ジェンダー平等への道のりがあまりにも遠い日本社会、原発事故裁判が明らかにした社会的責任の在り方、米国で高まる自由と民主主義への危機、兵庫県知事をめぐる倫理と権力の問題、そして大船渡で猛威を振るった山火事が示す自然との共生の難しさ―。  これらの現実を冷静に見つめ、その奥にある問題の本質を掘り下げることが求められている。今こそわたしたちは、傍観者ではなく当事者として社会に向き合い、信仰と行動を通じて応答すべきである。今日の《教会時論》がその一助となることを願いつつ、論考を始めたい。 国際女性デー50年——意識と制度、変革のとき  今年の3月8日、「国際女性デー」が国連で制定されてから半世紀を迎える。50年前、女性の権利向上と社会参加を世界規模で推進すべく立ち上がったこの記念日は、女性たちの長い闘いの歴史に光を当ててきた。  しかし、日本に目を向けると、そこに映るのは道半ばどころか、いまだ進歩の兆しが見えにくい現状である。  日本社会の男女平等度を示す指標は、昨年も国際的な比較で低迷を続け、146か国中118位にとどまった(世界経済フォーラム調査)。特に政治分野と経済分野における遅れが顕著だ。たとえば、昨年の衆院選で女性議員の割合は過去最高の15.7%となったが、有権者の半数が女性である事実を前に、この数字を「前進」と呼ぶのは憚られる。  政党や政治の世界には今なお男性中心の意識が蔓延し、女性の参画を促す環境整備や、クオータ制の導入をはじめとする実効的な改革は後手に回ったままである。  企業の現場もまた同様である。わずかではあるが女性役員の登用も見られるようになったが、1600社以上ある上場企業の中で女性CEOはわずか13名、全体の0.8%にすぎない。女性たちは出産や育児によるキャリアの途絶を余儀なくされ、非正規雇用に追いやられるケースも多い。さらには、男女の賃金格差は解消されるどころか、依然として根...

聖霊降臨後第三主日 二〇二五年六月二十九日 ▼ 説教草稿「振り返らずに従うという自由」

 ▼ 説教草稿「振り返らずに従うという自由」 【教会暦】 聖霊降臨後第三主日 二〇二五年六月二十九日 【聖書箇所】 旧約日課 :列王記上 一九章一五〜一六節、一九〜二一節 使徒書  :ガラテヤの信徒への手紙 五章一節、一三〜二五節 福音書  :ルカによる福音書 九章五一〜六二節 【要旨】 自由とは、欲望のままに生きることではない。それは、キリストに従うことによって与えられる、霊による新たな生き方である。エリシャは農具を焼き、過去を手放して預言者の召命に応えた。主イエスは、手を鋤にかけた者が後ろを振り返ることなく、神の国のために歩むよう招く。私たちは、愛によって互いに仕え合い、霊の実を結ぶ自由の道を歩む者として召されている。 【本文】 神の国へのまなざしを整える時  聖霊降臨の祝日から数えて三つ目の主日を迎えたこの日、私たちは、神の国の到来を見つめつつ、地におけるキリストの道をあらためて問われる。  典礼の色は緑である。それは、単に安定や成熟を表す色ではない。この季節において緑は、聖霊によって養われる成長のしるしである。信仰はただ芽吹くだけでは不十分であり、霊的な実を結ぶことこそが本質であると、聖霊降臨後の諸主日は繰り返し私たちに告げる。  けれど、成長とは、静的で緩慢な過程ではない。それはむしろ、断念と決断、召命と応答という切断の繰り返しを経て成立する。きょう与えられた聖書箇所はいずれも、過去との断絶を伴う召しに対して、ひとがどう応答するかを描いている。そしてその応答のかたちは、古代の預言者にも、初代教会の信徒にも、主イエスと道を共にする弟子にも、それぞれ異なる様相を帯びている。  「自由」の季節――それがこの主日のもう一つの霊的背景である。ガラテヤ書が語る「キリストによる自由」は、ただの解放ではない。むしろそこには、「愛によって互いに仕え合いなさい」という制限がある。この矛盾のような真理の内に、信仰者の成熟があるのだ。  今ここに集う私たちも、神の召命に対し、自由の霊に導かれつつ、なお振り返らずに歩む者となるよう招かれている。 召命とは、焼き尽くす決断である——エリヤとエリシャの交代劇  旧約日課の舞台は、エリヤとエリシャ、ふたりの預言者の交差の瞬間である。北イスラエルの王アハブの時代、偶像礼拝と霊的退廃が極みに達していた。エリヤはカルメル山でバアルの預言...
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