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「沖縄『慰霊の日』における一つの誠実――石破茂首相の姿勢に寄せて」《自由と友愛の独立アングリカン教会 大主教による信仰的省察》

「沖縄『慰霊の日』における一つの誠実――石破茂首相の姿勢に寄せて」《自由と友愛の独立アングリカン教会 大主教による信仰的省察》 本稿は、大主教個人の識見と祈りに基づく論考であり、「自由と友愛の独立アングリカン教会」としての公式見解を示すものではありません。  太平洋戦争末期の沖縄戦から八十年を迎えた、2025年6月23日――この「慰霊の日」にあたり、私たちは単なる記念ではない、深い霊的責任と向き合う機会を与えられている。戦争がもたらした死と分断、その記憶と苦難は、すでに歴史の教科書に留まるべきものではなく、今を生きる私たちが不断に問われる倫理の問題であり、信仰の課題である。  そのような日、沖縄の地で献花し、言葉を捧げた一人の総理大臣の姿があった。石破茂首相である。私は、政党としての自民党を支持するものではないし、現行の権力構造を肯定する立場でもない。しかしそれゆえにこそ、一人の政治家の振る舞いが、党派の枠を超えて語りかけてくるとき、その誠実さを見逃してはならいと思う。石破氏の語りと行動には、祈りにも似た「悼み」の気配があり、それは政治的言説の枠を超えて、人間の良心に語りかけていた。  石破氏が語ったのは、ただの反復された挨拶文句ではない。「希望に満ちた未来を歩むべき若者までが戦場に駆り立てられ犠牲となった」「私たちが享受している平和と繁栄は、この地で命を落とされた方々の尊い犠牲の上に築かれたものだ」――このような言葉には、過去の出来事を単なる事実として語る冷たさはなく、現在と未来を生きる者としての負債意識と、倫理的決意がにじみ出ている。これは「政治家としての模範解答」以上のものだったと私は受け止めている。  特筆すべきは、彼が「ひめゆりの塔」に赴き、花を捧げ、館長との対話の中で「そうですね」と応答した場面である。過去の展示や歴史の記録が、いま軽んじられようとしているこの時代において、それらを正面から受け止めようとする姿勢に、真摯さがあった。政治家が「言及しない」という態度を取ることは往々にして逃避に転じうるが、石破氏は逆に、何を語るべきか、何を語らぬべきかを静かに峻別しながら、「その場にいること」の意味を全身で表そうとしていた。  政治とは、本来、記憶の管理ではなく、痛みの共有と未来への責任にほかならない。追悼の言葉は、形式だけではなく、その人の歩みと一体となって...

▼ 誤りを継がせぬために(2025年6月23日)「歴史を偽る歌声に―摩文仁の丘に立つすべての人へ」

  ▼ 誤りを継がせぬために(2025年6月23日)「歴史を偽る歌声に―摩文仁の丘に立つすべての人へ」 記憶の場に差し出された、異なる声  2025年6月23日、沖縄戦八十年の「慰霊の日」にあたり、糸満市・摩文仁の「黎明の塔」において、一団の男性たちが「うみゆかば」を斉唱し、いわゆる英霊への賛歌を捧げる光景が報じられました。その場に高齢者の姿はなく、新たな時代の表情をもって、過去の亡霊が呼び戻されているようでした。国家のために死んだ者たちが称えられる一方で、戦禍に命を奪われた幼子たちの名は呼ばれず、痛みも祈りも、正義も共感も、そこには見れれませんでした。ただ、男たちの沈黙と歌声、そして戦火へと向かう空気が、静かに広がっていたのです。 それは慰霊ではなく、偽りの記憶です  私たちは明言します。あの出来事は、歴史の癒しではなく、記憶の偽装です。祈りの名を借りて、霊性を軍事の言語へと従属させる行為です。犠牲者の顔を忘却し、加害と犠牲の区別を曖昧にする運動が、静かに、しかし確実に、社会の内部で構造化されている現実に、私たちは目を開かねばなりません。それはもはや「兆し」ではありません。「実体」として制度に組み込まれ、国家的欲望の延長としての信仰の仮面を纏いはじめています。そこにいるのは、自ら考え、悔いる自由を奪われた者たち――制度の子、構造の息子たちです。 沈黙する教会は、主の声を裏切る  この現象を「若者の慰霊」あるいは「愛国的な追悼」として肯定するならば、教会は主の御名のもとに沈黙の共犯者となるでしょう。主が語られるのは栄誉ではありません。悔い改めと憐れみです。もし教会が声を失うなら、摩文仁の丘で語られるべき痛みの記憶は、「大君の御楯」として踏みにじられます。再教育が必要です。しかしそれは教室ではなく、魂の奥深くでなされるべきものでありましょう。過去を誤って語る前に、自らの魂を悔い改めることが、何よりの教育なのです。 信仰は、犠牲者の側に立つ道です  社会が「死者を記憶するふり」をして、戦争の物語を語り直そうとするとき、私たちは「平和」という語の霊的意味をあらためて問わねばなりません。私たちは、誰の死を記憶するのか。誰の痛みに寄り添うのか。その問いに応えぬ教会があるならば、その教会はもはや福音の証し人ではありません。偽りの平和に信仰の言葉を与えてはなりません。偽り...

▼ 教会時論(2025年6月23日)「沖縄戦八十年『新しい戦前』を拒む信仰―慰霊の日に教会が担う責任」

  ▼ 教会時論(2025年6月23日)「沖縄戦八十年『新しい戦前』を拒む信仰―慰霊の日に教会が担う責任」 構造を暴く 沖縄戦をめぐる記憶の闘いと、国家的不誠実の構造  2025年6月23日、沖縄は再び「慰霊の日」を迎えた。摩文仁の丘に集う人々は、かつて戦争によって奪われた幾多の命を悼み、黙して祈り、平和への誓いを新たにした。だが、その静けさの背後において、「記憶の捏造」という霊的暴力が公然と進行している。沖縄戦の実相が、国家による意図的な歪曲のもとで再構築されつつある。「集団自決」における日本軍の関与を否定し、「住民保護」を装う虚構が、政権中枢から発信されている。  沖縄戦とは、「本土決戦」の時間稼ぎに他ならなかった。住民は「皇土防衛」の名のもとに犠牲とされ、軍隊は住民を守るどころか、しばしばスパイと見なし、命を奪い、自決を強いた。この歴史的事実を否定することは、単なる無知では済まされない。それは、国家が再び「戦争を選び得る」条件を整えるための、きわめて計算された倫理の崩壊である。  いま私たちが直面しているのは、「歴史修正」という名をまとった霊的暴力である。沖縄戦の記憶が矮小化されるとき、命の尊厳もまた相対化されていく。この修正主義は、「台湾有事」を名目とする軍備拡張と歩調を合わせ、沖縄への軍事配備の加速として現実化している。「かつての戦争を美化した者たち」が、今度は「これからの戦争を準備する者たち」として姿を現している。  聖書は語る。「あなたは寄留者を虐げてはならない。あなたがたもかつてはエジプトの地で寄留者であったからだ」(出エジプト記23:9)。この御言葉は、遠い昔の倫理命令ではなく、いまこの日本社会――とりわけ沖縄において――新たに響く神の警告である。  「新しい戦前」は、ある日突然訪れるのではない。記憶の改竄、他者への敵意の扇動、軍拡の正当化、政治的無関心、そして教会の沈黙――それらが複合的に作用し、静かに、確実に形成されていく。ゆえに、いま私たちは問われている。教会は沈黙の共犯者となるのか、それとも命を記憶する共同体として立ち続けるのか。 信仰からの応答 歴史を記憶し、命の側に立つ――「慰めの教会」から「預言する共同体」へ  「軍隊は住民を守らない」。これは、沖縄戦が刻んだ厳粛なる教訓である。この現実を、私たちは信仰共同体としていかに受け止...

▼ 牧者雑記(2025年6月23日)「都心に現れた『変化』の肖像――佐藤沙織里氏・都議選千代田区初当選をめぐって」

 ▼ 牧者雑記(2025年6月23日)「都心に現れた『変化』の肖像――佐藤沙織里氏・都議選千代田区初当選をめぐって」 歴史の表層と、倫理の深層  ある政治的勝利が「奇跡」と呼ばれるとき、私たちは何を祝福し、何を見過ごしているのだろうか。  無所属・無組織で臨んだ候補者が、東京の中心区で歴史的勝利を収めたという出来事は、表層的には確かに「変化」を示しているように見える。だが、「夜も出歩けない」「治安を取り戻す」といった演説の言葉に耳を傾けたとき、それは本当に未来に開かれた希望の物語なのだろうか。  治安という言葉で語られる「安心」とは、誰の不安によって生まれ、誰の存在を排除することによって成立しているのか。この国に夜をもたらしているのは誰か。その夜の静けさは、誰かの声が聞こえなくなることによって保たれてはいないか。 「無所属」ではなく「無責任」ではないか  政党に属さず、市民の声を聴いたと語る者が、減税と排外の言葉を掲げるなら、それは民意の代弁ではなく、民意の誘導である。  「外国人土地取得規制」や「不法外国人」という言葉が歓声とともに受け入れられる時、そこに宿るのは公共の倫理ではなく、排除と憎悪に裏打ちされた単純な勧善懲悪の物語だ。  無所属だからこそ、理念において責任を問われる。制度や組織に依存せずに語る者こそ、その言葉が社会をどう形づくるのか、沈黙のうちに問われるのだ。 「時代が本当に変わる」と語る者に  「奇跡」とは、力なき者が癒されるときに起きることであって、力を手にした者が勝利を収めたことではない。「時代が変わる」と言うならば、それは、社会の片隅で名もなき者たちが自らの尊厳を回復し、光の中に歩み出す時でなければならない。  しかし、排除の論理で築かれた勝利の上には、真の変革は起こりえない。治安を理由に他者を名指しすることは、かえって社会の不安と分断を深めるだけだ。  「ずっと千代田区を歩いてきた」というその道が、傷ついた者の声に耳を傾ける道であったのか。それとも、勝利を正当化するために選ばれた演出の道であったのか。  政治とは、語られなかった声の側に立つことではなかったか。 見届けるという名の祈り  候補者自身が語ったように、「これからの活動を、ちょっと厳しい目で見届けて」ほしいという呼びかけは、私たちの倫理的責任を喚起する。  それは批判でも嘲笑...

▼ 教会時論(2025622)「すべてが軍需に向かうとき、失われるものは何か」

  ▼ 教会時論(2025622)「すべてが軍需に向かうとき、失われるものは何か」 軍需産業は「資源」を吸い尽くす  税金だけではない。人材も、時間も、技術も、教育制度も、環境保護も、すべてが軍需産業のために再編されつつある。政府は防衛を口実に、国民から徴収した財政を軍需産業に投じる。大学や研究機関には防衛研究という名目で資金が流れ、技術者と学生は無意識に兵器開発の一端を担わされる。森林は演習場に転用され、土壌は燃料と薬品で汚染される。  今、わたしたちは「何に投資するのか」ではなく、「何を失っても軍需を優先するのか」が問われている。 失われるもの  軍需に注がれる一円一秒は、本来なら、命を支える医療、子どもたちの教育、生活困窮者への福祉、気候変動への備え、文化・芸術・祈りと対話の空間のために用いられるべきものだった。軍需によって増加するのは雇用ではない。恐怖、分断、そして死だ。  軍事優先社会は、命の優先社会ではない。税金も制度も技術も、本来は「人を殺さない」ためにあるべきなのだ。 誰が利益を得るのか  その一方で、確実に潤う者がいる。軍需企業だ。兵器を作る企業、システム開発を請け負う企業、補給や再建で利益を得る関連企業――彼らは、戦争が続く限り成長し、戦争が予見されるほど投資家に安心される。さらには...。  国家は彼らの市場だ。そして国民は、その市場維持のための「消耗品」となる。 軍需を問い直すことは倫理の出発点である  平和は「軍事に代わる選択肢」としてではなく、「倫理の唯一の帰結」として求められるべきである。そのとき、わたしたちはようやく問うことができるだろう。「社会とは何のために存在するのか」「国家とは何を守るべきか」と。  武器を持った者が社会を導くのではない。沈黙のうちに苦しむ者、暴力によって命を断たれた者、声を奪われた者の痛みこそが、社会を導く。軍需によって利する者たちは、それを知っているがゆえに、なおさら兵器の音でその声を掻き消そうとするのだ。  しかし、わたしたちは忘れてはならない。  命のために、社会はあるのだ。 人々の剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。(イザヤ書2章4節) アメリカ イランの3つの核施設攻撃 本土攻撃は初めて トランプ大統領「目的はイランの核濃縮能力の...

▼ 牧者雑記「東日本大震災から何を学んだ? どこに生かした? 被災者を置き去りにし、政治も行政も責任を曖昧にし続けている」

 牧者雑記(2025年3月11日)  14年経った。それでも日本は「災害大国」の名を返上できず、無数の命が失われ続ける。「備える」と言いながら、同じ苦しみを、同じ過ちを、幾度となく繰り返している。  能登半島地震では、直接の死者を上回る「災害関連死」が300人を超えた。寒さと飢え、劣悪な避難環境が人を死へと追いやった。これは「天災」ではない。「人災」だ。  東日本大震災から何を学んだ? どこに生かした? 被災者を置き去りにし、政治も行政も責任を曖昧にし続けている。  福島第1原発事故も終わっていない。処理水放出、除染土の処分、核燃料の行き場なし。復興を叫びながら、その足元には未解決の問題が山積する。廃炉は進まず、未来の世代にツケを回す。  言葉だけの「教訓」は不要だ。避難所の改善、医療の充実、高齢者の孤立を防ぐ仕組み、これらを即座に実行しなければならない。「次こそは」では遅い。今、この瞬間に対策を打たなければ、また死者が積み重なる。  語り継ぐのは、悲しみではなく怒りである。忘れるな。過去を悼むだけでは、未来を守れない。  どうか、大切な方々と分かち合い、共に思いを深めてください。  皆様へ。特に東日本大震災の死傷者、被害に遭われた方々、そして今もなお災害の影響に苦しんでおられる方々のために。  亡くなられた方々が、主の御手のうちに安らかに憩われますように。  生きておられるすべての方々の上に、主の慰めと平安が豊かにありますように。

▼ 教会時論「戦争は愛を引き裂き、人間を砕く――東京大空襲80年に寄せて」

教会時論(2025/3/10) 八〇年前の東京の夜に  八〇年前の東京の夜、炎が人びとの命を容赦なく飲み込み、家族を引き裂いた。  母は子を抱きしめたまま、父は必死に叫びながら、焼け落ちた家の中でその生を終えた。戦争とは、そういうものだ。  「国を守る」?「誇りのため」?――そんな言葉では到底、救いきれない死が、そこに確かに存在していた。 美辞麗句の背後にある現実  好戦的な者たちは、今もなおいる。  「抑止力」「防衛のため」と美辞麗句を並べても、その代償として血を流すのは、力なき市井の人びとである。  銃が平和を生んだことはない。焼夷弾が正義を証明したことも、かつて一度としてなかった。  空襲の夜に失われた命の重みを、政治の駆け引きや防衛論争の中で忘れてはならない。 九条の意味――過去から未来への誓い  憲法第九条、それは人類が戦争の狂気から生還した証であり、未来への誓いであった。  だが今、その誓いをないがしろにする声が大きくなりつつある。  戦争は「いつかまた」ではなく、「決意ひとつ」で始まってしまう現実である。  だからこそ、わたしたちはこの日に立ち止まり、思い出す必要があるのだ。  戦争は、愛を引き裂く。  だから、戦争を拒む。  それこそが、人間の選ぶべき唯一の道である。 祈りと分かち合いのすすめ  どうか、この記憶を、大切な方々と共に分かち合ってください。  そして、あの日に失われた命と、その叫びに心を重ねながら、共に思いを深めてくださいますように。  
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