▼ 牧者雑記(2025年6月23日)「都心に現れた『変化』の肖像――佐藤沙織里氏・都議選千代田区初当選をめぐって」
歴史の表層と、倫理の深層
ある政治的勝利が「奇跡」と呼ばれるとき、私たちは何を祝福し、何を見過ごしているのだろうか。
無所属・無組織で臨んだ候補者が、東京の中心区で歴史的勝利を収めたという出来事は、表層的には確かに「変化」を示しているように見える。だが、「夜も出歩けない」「治安を取り戻す」といった演説の言葉に耳を傾けたとき、それは本当に未来に開かれた希望の物語なのだろうか。
治安という言葉で語られる「安心」とは、誰の不安によって生まれ、誰の存在を排除することによって成立しているのか。この国に夜をもたらしているのは誰か。その夜の静けさは、誰かの声が聞こえなくなることによって保たれてはいないか。
「無所属」ではなく「無責任」ではないか
政党に属さず、市民の声を聴いたと語る者が、減税と排外の言葉を掲げるなら、それは民意の代弁ではなく、民意の誘導である。
「外国人土地取得規制」や「不法外国人」という言葉が歓声とともに受け入れられる時、そこに宿るのは公共の倫理ではなく、排除と憎悪に裏打ちされた単純な勧善懲悪の物語だ。
無所属だからこそ、理念において責任を問われる。制度や組織に依存せずに語る者こそ、その言葉が社会をどう形づくるのか、沈黙のうちに問われるのだ。
「時代が本当に変わる」と語る者に
「奇跡」とは、力なき者が癒されるときに起きることであって、力を手にした者が勝利を収めたことではない。「時代が変わる」と言うならば、それは、社会の片隅で名もなき者たちが自らの尊厳を回復し、光の中に歩み出す時でなければならない。
しかし、排除の論理で築かれた勝利の上には、真の変革は起こりえない。治安を理由に他者を名指しすることは、かえって社会の不安と分断を深めるだけだ。
「ずっと千代田区を歩いてきた」というその道が、傷ついた者の声に耳を傾ける道であったのか。それとも、勝利を正当化するために選ばれた演出の道であったのか。
政治とは、語られなかった声の側に立つことではなかったか。
見届けるという名の祈り
候補者自身が語ったように、「これからの活動を、ちょっと厳しい目で見届けて」ほしいという呼びかけは、私たちの倫理的責任を喚起する。
それは批判でも嘲笑でもなく、祈りとしての監視である。権力を握る者が、自らの正しさを疑い続けるように促す祈りであり、社会の弱き者が置き去りにされぬように記憶し続ける祈りである。
それが、「奇跡」と呼ばれる出来事に対して、私たちが語りうる唯一の誠実な言葉である。(箴言16章2節)