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▼ 牧者雑記「東日本大震災から何を学んだ? どこに生かした? 被災者を置き去りにし、政治も行政も責任を曖昧にし続けている」

 牧者雑記(2025年3月11日)  14年経った。それでも日本は「災害大国」の名を返上できず、無数の命が失われ続ける。「備える」と言いながら、同じ苦しみを、同じ過ちを、幾度となく繰り返している。  能登半島地震では、直接の死者を上回る「災害関連死」が300人を超えた。寒さと飢え、劣悪な避難環境が人を死へと追いやった。これは「天災」ではない。「人災」だ。  東日本大震災から何を学んだ? どこに生かした? 被災者を置き去りにし、政治も行政も責任を曖昧にし続けている。  福島第1原発事故も終わっていない。処理水放出、除染土の処分、核燃料の行き場なし。復興を叫びながら、その足元には未解決の問題が山積する。廃炉は進まず、未来の世代にツケを回す。  言葉だけの「教訓」は不要だ。避難所の改善、医療の充実、高齢者の孤立を防ぐ仕組み、これらを即座に実行しなければならない。「次こそは」では遅い。今、この瞬間に対策を打たなければ、また死者が積み重なる。  語り継ぐのは、悲しみではなく怒りである。忘れるな。過去を悼むだけでは、未来を守れない。  どうか、大切な方々と分かち合い、共に思いを深めてください。  皆様へ。特に東日本大震災の死傷者、被害に遭われた方々、そして今もなお災害の影響に苦しんでおられる方々のために。  亡くなられた方々が、主の御手のうちに安らかに憩われますように。  生きておられるすべての方々の上に、主の慰めと平安が豊かにありますように。

▼ 牧者雑記「偽善にも露悪にも与せず」

牧者雑記(2025年3月6日)  教会の中にも、そしてこの世界の至るところにも、右と左、偽善と露悪、あらゆるものが入り交じっている。まるで人の世に光と影があるように、その空間には矛盾と混乱が渦を巻いている。  だが、信仰者にとって本当に大切なのは、その入り組んだ現実を見極め、どちらの極端にも安易に与しないことだ。偽善を憎むあまり露悪へと傾けば、やがて自分を絶対的な正義と錯覚し、知らぬうちに別の欺瞞に取り込まれてしまう。逆に、露悪を嫌って偽善に染まれば、それはただ都合のいい「善」の仮面を被って、責任から逃げる行為にすぎない。  どちらも、本質的な誠実さから遠ざかっていく危うい道である。  だからこそ、わたしたちは流行や空気に流されることなく、自らの足で立ち、心の奥深くで真理を問い続ける素養を養わなければならない。沈黙の中で、祈りの中で、ほんとうの誠実とは何かを、見つめ続ける勇気を持ちたい。

▼ 牧者雑記「紫の季節、祈りと希望のあいだに――大斎節に染まる教会、その静けさに耳を澄ませて」

  牧者雑記(2025年3月5日) 紫色に託された意味  ある日ふと教会の中に足を踏み入れると、祭壇の布や聖職者の着ている衣が一面「紫色」に染まっている――そんな光景に出会ったことはないだろうか。この紫という色には、単なる装飾を超えた深い象徴的意味が託されている。  キリスト教の典礼暦においては、季節ごとに特定の「色」が定められている。それは、信仰の歩みに寄り添いながら、礼拝空間に視覚的なリズムと霊的なメッセージをもたらすものだ。その中でも紫は、特に静けさと重みを湛えた色として知られ、「降臨節(アドベント)」と「大斎節(レント)」という、内省と準備の時期に主役を務める。  なかでも、大斎節における紫には、ひときわ深い祈りと沈思の空気が込められている。それは悔い改めと再生を促す色であり、わたしたちを新しい命へと導く、霊の季節の始まりを告げる色である。 悔い改めと再創造への招き  大斎節は、「灰の水曜日」から始まり、イースター(復活日)へと向かう四十日間――ただし日曜日は除かれる――にわたって続く。この期間、教会全体は「悔い改め」と「霊的な準備」に焦点を当て、沈黙と祈りのうちに歩みを進める。  紫は、かつて王侯貴族に用いられた「高貴さの象徴」であると同時に、「悔い改め」や「苦難」の色としても知られる。思い起こすべきは、イエスが十字架へと向かう道中、兵士たちによって紫の衣を着せられ、嘲弄された場面である(マルコによる福音書十五章十七節)。  この出来事において、紫は王の威厳と共に、苦しみと侮辱のしるしともなった。ゆえに、大斎節における紫は、王としてのキリストと、苦難のなかでなお愛を捨てなかった主の姿とを重ね合わせる色として、わたしたちの心に深く訴えかけてくる。  この季節、わたしたちは単に過去の過ちを省みるだけでなく、より深く、神との関係を回復するための旅路へと招かれている。悔い改めとは、単なる反省ではない。それは、古い自己に別れを告げ、新たな生き方へと踏み出す、意志と信仰の選択である。 Ⅲ 霊の歩み――三つの実践  この紫の季節において、教会はわたしたちに三つの霊的実践を勧めている。それは、単なる宗教的義務ではなく、わたしたちの存在全体を刷新するための「生活の祈り」としての営みである。 1.祈り  忙しさに追われる日常の中で立ち止まり、心の静けさを取り戻すとき。...
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