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▼ 牧者雑記「紫の季節、祈りと希望のあいだに――大斎節に染まる教会、その静けさに耳を澄ませて」

 


牧者雑記(2025年3月5日)

紫色に託された意味

 ある日ふと教会の中に足を踏み入れると、祭壇の布や聖職者の着ている衣が一面「紫色」に染まっている――そんな光景に出会ったことはないだろうか。この紫という色には、単なる装飾を超えた深い象徴的意味が託されている。

 キリスト教の典礼暦においては、季節ごとに特定の「色」が定められている。それは、信仰の歩みに寄り添いながら、礼拝空間に視覚的なリズムと霊的なメッセージをもたらすものだ。その中でも紫は、特に静けさと重みを湛えた色として知られ、「降臨節(アドベント)」と「大斎節(レント)」という、内省と準備の時期に主役を務める。

 なかでも、大斎節における紫には、ひときわ深い祈りと沈思の空気が込められている。それは悔い改めと再生を促す色であり、わたしたちを新しい命へと導く、霊の季節の始まりを告げる色である。

悔い改めと再創造への招き

 大斎節は、「灰の水曜日」から始まり、イースター(復活日)へと向かう四十日間――ただし日曜日は除かれる――にわたって続く。この期間、教会全体は「悔い改め」と「霊的な準備」に焦点を当て、沈黙と祈りのうちに歩みを進める。

 紫は、かつて王侯貴族に用いられた「高貴さの象徴」であると同時に、「悔い改め」や「苦難」の色としても知られる。思い起こすべきは、イエスが十字架へと向かう道中、兵士たちによって紫の衣を着せられ、嘲弄された場面である(マルコによる福音書十五章十七節)。

 この出来事において、紫は王の威厳と共に、苦しみと侮辱のしるしともなった。ゆえに、大斎節における紫は、王としてのキリストと、苦難のなかでなお愛を捨てなかった主の姿とを重ね合わせる色として、わたしたちの心に深く訴えかけてくる。

 この季節、わたしたちは単に過去の過ちを省みるだけでなく、より深く、神との関係を回復するための旅路へと招かれている。悔い改めとは、単なる反省ではない。それは、古い自己に別れを告げ、新たな生き方へと踏み出す、意志と信仰の選択である。

Ⅲ 霊の歩み――三つの実践

 この紫の季節において、教会はわたしたちに三つの霊的実践を勧めている。それは、単なる宗教的義務ではなく、わたしたちの存在全体を刷新するための「生活の祈り」としての営みである。

1.祈り

 忙しさに追われる日常の中で立ち止まり、心の静けさを取り戻すとき。神と向き合い、み声に耳を澄ませ、自分の内奥にある思いを祈りのうちに差し出す。

2.節制(断食)

 物に満ちた世界の中で、ほんとうに「必要なもの」と「欲望から来るもの」とを見極める。食事を控えることだけでなく、過剰な欲求や執着を手放す行為も含まれる。

3.悔い改めの行い

 他者との関係を見つめ直し、赦しを与え、和解を求めていく。言葉にするのは易しくとも、実践するには勇気を要する。だがその勇気の先にこそ、命の再創造の扉が開かれる。

 これらの歩みは、神のかたちに創られたわたしたち自身を再び取り戻す道程であり、主イエス・キリストの歩みに自らを重ね合わせるための、日々の信仰の鍛錬である。

紫の向こうに待つ光

 大斎節という季節は、重苦しい印象を与えるかもしれない。けれどもその先には、イエスの復活という圧倒的な喜びと光が待っている。

 この季節は、「絶望」や「懺悔」の中にとどまるための期間ではない。それは、主の復活を迎えるにふさわしく、自分の内を整え直すための「希望への準備期間」なのである。

 だからもし、教会で紫色の布や聖衣に出会ったら、それは神からの静かな招きかもしれない。少し立ち止まり、自分の魂の深みに目を向けてみよう。そして神の憐れみと希望に、もう一度心をひらいてみる。そのとき、紫はもはやただの色ではなく、あなたを新たな旅路へと導く「光のしるし」となるにちがいない。

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