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▼ 教会時論(2025622)「すべてが軍需に向かうとき、失われるものは何か」

 

▼ 教会時論(2025622)「すべてが軍需に向かうとき、失われるものは何か」

軍需産業は「資源」を吸い尽くす

 税金だけではない。人材も、時間も、技術も、教育制度も、環境保護も、すべてが軍需産業のために再編されつつある。政府は防衛を口実に、国民から徴収した財政を軍需産業に投じる。大学や研究機関には防衛研究という名目で資金が流れ、技術者と学生は無意識に兵器開発の一端を担わされる。森林は演習場に転用され、土壌は燃料と薬品で汚染される。

 今、わたしたちは「何に投資するのか」ではなく、「何を失っても軍需を優先するのか」が問われている。

失われるもの

 軍需に注がれる一円一秒は、本来なら、命を支える医療、子どもたちの教育、生活困窮者への福祉、気候変動への備え、文化・芸術・祈りと対話の空間のために用いられるべきものだった。軍需によって増加するのは雇用ではない。恐怖、分断、そして死だ。

 軍事優先社会は、命の優先社会ではない。税金も制度も技術も、本来は「人を殺さない」ためにあるべきなのだ。

誰が利益を得るのか

 その一方で、確実に潤う者がいる。軍需企業だ。兵器を作る企業、システム開発を請け負う企業、補給や再建で利益を得る関連企業――彼らは、戦争が続く限り成長し、戦争が予見されるほど投資家に安心される。さらには...。

 国家は彼らの市場だ。そして国民は、その市場維持のための「消耗品」となる。

軍需を問い直すことは倫理の出発点である

 平和は「軍事に代わる選択肢」としてではなく、「倫理の唯一の帰結」として求められるべきである。そのとき、わたしたちはようやく問うことができるだろう。「社会とは何のために存在するのか」「国家とは何を守るべきか」と。

 武器を持った者が社会を導くのではない。沈黙のうちに苦しむ者、暴力によって命を断たれた者、声を奪われた者の痛みこそが、社会を導く。軍需によって利する者たちは、それを知っているがゆえに、なおさら兵器の音でその声を掻き消そうとするのだ。

 しかし、わたしたちは忘れてはならない。

 命のために、社会はあるのだ。

人々の剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。(イザヤ書2章4節)

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