▼ 誤りを継がせぬために(2025年6月23日)「歴史を偽る歌声に―摩文仁の丘に立つすべての人へ」
記憶の場に差し出された、異なる声
2025年6月23日、沖縄戦八十年の「慰霊の日」にあたり、糸満市・摩文仁の「黎明の塔」において、一団の男性たちが「うみゆかば」を斉唱し、いわゆる英霊への賛歌を捧げる光景が報じられました。その場に高齢者の姿はなく、新たな時代の表情をもって、過去の亡霊が呼び戻されているようでした。国家のために死んだ者たちが称えられる一方で、戦禍に命を奪われた幼子たちの名は呼ばれず、痛みも祈りも、正義も共感も、そこには見れれませんでした。ただ、男たちの沈黙と歌声、そして戦火へと向かう空気が、静かに広がっていたのです。
それは慰霊ではなく、偽りの記憶です
私たちは明言します。あの出来事は、歴史の癒しではなく、記憶の偽装です。祈りの名を借りて、霊性を軍事の言語へと従属させる行為です。犠牲者の顔を忘却し、加害と犠牲の区別を曖昧にする運動が、静かに、しかし確実に、社会の内部で構造化されている現実に、私たちは目を開かねばなりません。それはもはや「兆し」ではありません。「実体」として制度に組み込まれ、国家的欲望の延長としての信仰の仮面を纏いはじめています。そこにいるのは、自ら考え、悔いる自由を奪われた者たち――制度の子、構造の息子たちです。
沈黙する教会は、主の声を裏切る
この現象を「若者の慰霊」あるいは「愛国的な追悼」として肯定するならば、教会は主の御名のもとに沈黙の共犯者となるでしょう。主が語られるのは栄誉ではありません。悔い改めと憐れみです。もし教会が声を失うなら、摩文仁の丘で語られるべき痛みの記憶は、「大君の御楯」として踏みにじられます。再教育が必要です。しかしそれは教室ではなく、魂の奥深くでなされるべきものでありましょう。過去を誤って語る前に、自らの魂を悔い改めることが、何よりの教育なのです。
信仰は、犠牲者の側に立つ道です
社会が「死者を記憶するふり」をして、戦争の物語を語り直そうとするとき、私たちは「平和」という語の霊的意味をあらためて問わねばなりません。私たちは、誰の死を記憶するのか。誰の痛みに寄り添うのか。その問いに応えぬ教会があるならば、その教会はもはや福音の証し人ではありません。偽りの平和に信仰の言葉を与えてはなりません。偽りの愛国に、ふたたび人の血を流させてはなりません。歴史は過去のものではありません。私たちは摩文仁の丘で、それを見たのです。今や、知らなかったとは言えないのです。
「もし見張りが来る剣を見ながら角笛を吹かず、民に警告しなかったなら、来た剣にその人が奪われたとき、その人は自らの咎によって死ぬが、わたしはその血を見張り人の手から求める。」
― エゼキエル書33章6節