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大斎節前主日 二〇二五年三月二日 ▼ 大主教講話——大斎節への備えとして


主の平和が皆様と共にありますように。

 本日は大斎節前主日です。来たる灰の水曜日(大斎始日)をもって、わたしたちは大斎節の厳かな歩みへと招かれます。この日、教会の礼拝では、額に灰のしるしを受ける「灰の式」が執り行われ、「塵にすぎないお前は塵に返る」(創世記3章19節)とのみ言葉が宣言されます。この灰は、悔い改めの象徴であり、わたしたちが神の前にへりくだり、主の憐れみによって新たにされるよう促すものです。

 大斎節は、単なる自省の期間ではありません。これはキリストの十字架の受難を黙想し、復活の栄光へと備える信仰の旅路です。その始まりを迎えるに先立ち、わたしたちは今日、この大斎節前主日にあたり、心を整え、主の招きに応える備えを整えましょう。

大斎節の意義と悔い改め

 大斎節(たいさいせつ)は、灰の水曜日から復活日までの約40日間、信仰者が悔い改めと霊的刷新に励むときです。「大斎」という語が示すように、この時期は伝統的に断食と節制をもって過ごすことが勧められてきました。

 この40日という期間は、聖書においても象徴的な意味を持ちます。イスラエルの民が40年間荒野をさまよったこと、モーセがシナイ山で40日間祈り続けたこと、主イエスが公生涯の始めに荒れ野で40日間断食されたこと——いずれも神の御前における試練と準備の時でした。同様に、わたしたちもこの期間に自己を省み、神の御心に従う者へと整えられるのです。

 悔い改めとは、単に過去の過ちを嘆くことではありません。「メタノイア」(μετάνοια)というギリシャ語が示すように、それは心の向きを根底から変え、古い自己を脱ぎ捨て、神の御心に生きる新たな歩みを始める決断です。大斎節の目的は、わたしたちを悲しませることではなく、神の赦しのうちに新しい命へと導くことにあります。わたしたちが主の恵みを信じて歩むとき、大斎節は悔いの季節ではなく、希望と刷新の道となるのです。

大斎節における三つの霊的実践

 大斎節を豊かに過ごすために、教会は次の三つの霊的実践を勧めています。

(1)祈り

 日々の祈りを深め、神との交わりを養いましょう。特に詩編や福音書の受難記事を黙想することは、主の歩みに心を合わせ、霊的成熟を促すものです。祈りの中でわたしたちは、神の沈黙にも声を聴き、御言葉のうちに導きを見いだします。

(2)節制

 伝統的に、大斎節は食事の簡素化を含む節制の期間とされてきました。しかし今日、それは広く再解釈され、消費主義的な生活態度や過度な快楽への依存を見直す契機ともなっています。わたしたちは、何を減らし、何を選び取るのか——その問いが霊性を鍛えます。

(3)慈善(隣人愛の実践)

 悔い改めは内面的な営みにとどまらず、隣人との関係にも及びます。困難の中にある人びとに仕えることは、主の十字架を担うことです。募金、奉仕、傾聴、連帯——これらの行いを通して、わたしたちは福音のかたちを生きるのです。

主の受難と復活に向かって

 大斎節の最終的な目的地は、主イエスの受難と復活です。わたしたちはこの40日間、主がわたしたちのために歩まれた苦難と従順の道を黙想し、それに応答する者となるよう招かれています。

 この信仰の旅路が、わたしたち一人ひとりの心を新たにし、主の十字架と復活の恵みにあずかる備えとなりますように。そして、復活日の朝を、真に感謝と希望をもって迎えられますように。

 今日この大斎節前主日にあたり、どうか主の呼びかけに心を開き、静かに、しかし確かな決意をもって、大斎節への歩みを始めてまいりましょう。

 自由と友愛の独立アングリカン教会
 大主教 佐藤俊介

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