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大斎始日 灰の水曜日 二〇二五年三月五日 ▼ 説教——塵に宿る神の憐れみと復活の希望


 

【教会暦】

大斎始日 灰の水曜日 二〇二五年三月五日

【聖書箇所】

旧約日課:ヨエル書 二章一〜二節、十二〜十七節
使徒書:コリントの信徒への手紙二 五章二十節〜六章十節
福音書:マタイによる福音書 六章一〜六節、十六〜二十一節


本文

序 灰の水曜日の静寂と問いかけ

 皆様、主の平和が共にありますように。
 静寂に包まれた礼拝堂の中、一人ひとりがゆっくりと歩み寄り、祭壇の前で額に灰の印を受ける。そのたびに司祭の声が響く。「あなたは塵であり、塵に帰るのです。」この言葉は、時を超え、世代を超えて、人類の根源的な真実を語り続けてきました。

 今日、わたしたちは「灰の水曜日」を迎えています。この日、教会は静かに、しかし力強くわたしたちに語りかけます。「思い出しなさい。あなたが誰であり、どこから来て、どこへ向かうのかを。」大斎節の始まりを告げるこの日、わたしたちは神の前に立ち、限りある存在としての自分を見つめ直します。そして、灰の印を額に受けながら、心の奥深くに問いかけます。「私はどのように生きるべきか」と。

 聖書の中で、灰を身にまとうことは、悔い改めの象徴とされてきました。ヨブは、自らの無力さを悟ったとき、灰の中に座り、神の前で自らを低くしました(ヨブ記42:6)。ニネベの人々は、神の裁きを告げられたとき、王から庶民に至るまで灰をかぶり、断食をし、真剣に悔い改めました(ヨナ書3:5-6)。灰は、単なる儀式的な行為ではなく、わたしたちが神の前でへりくだり、己の在り方を見つめ直すためのしるしなのです。

 今日読まれるヨエル書の言葉が、まさにこの灰の水曜日の本質を突いています。「今こそ、心からわたしに立ち帰れ。」(ヨエル2:12)神は、表面的な儀式ではなく、わたしたちの内側の深い部分が変えられることを求めておられます。悔い改めとは、単なる罪の告白ではありません。それは、向きを変えること。今まで歩んでいた方向から、神へと向き直ること。

 パウロもまた、コリントの信徒への手紙二で強く語ります。「今こそ恵みの時、今こそ救いの日」(2コリント6:2)。悔い改めの機会を「いつか」ではなく、「今この時」に受け取ることの大切さを訴えます。わたしたちはしばしば、「落ち着いたら」「余裕ができたら」「今は忙しいから」と言い訳をして、神への応答を先延ばしにしてしまいます。しかし、神は待っておられます。「今、ここで」あなたの心が変えられることを。

 イエスは、今日の福音書で、信仰の本質を問いかけます。祈ること、施しをすること、断食すること——これらの行為は、神に向かうものですが、もしそれが人に見せるためのものであるならば、何の意味もありません(マタイ6:1-6,16-21)。信仰は、表に見えるものではなく、神との深い関係の中で育まれるものです。

 大斎節は、悔い改めの季節。しかし、それは単に「罪を思い出し、嘆く」ための期間ではありません。それは、神の愛に気づき、その愛のもとへと立ち帰る旅路です。

 この四十日の道のりの第一歩が、まさに今日、この「灰の水曜日」にあります。灰の印を受けたわたしたちは、どのような心でこの大斎節を歩んでいくのでしょうか。

 神は、あなたを招いています。「今こそ、心からわたしに立ち帰れ。」

Ⅰ 灰の象徴——人の限界と神の憐れみ

 灰は、すべてが燃え尽きた後に残るものです。それは、かつて確かに形を成し、役割を果たしていたものの名残。しかし、今は風に舞い、指先に触れれば跡形もなく消えていきます。静かに、何も言わず、ただそこにある灰は、人間の存在のはかなさを映し出しているかのようです。「あなたは塵であり、塵に帰るのです。」

 この言葉は、創世記の創造の物語に深く根ざしています。神は、地の塵から人を形づくり、その鼻に命の息を吹き込まれました(創世記2:7)。塵は、ただの土くれにすぎません。しかし、神がそこに息を吹き込まれることによって、塵は生きる者となるのです。それゆえに、わたしたちの命は、決して自らの力によって成り立っているのではありません。それは、神の息に生かされ、神の憐れみによって支えられているのです。

 灰の水曜日にわたしたちは額に灰の印を受けます。その灰は、しばしば前年の受難週の枝の燃え残りから作られます。栄光の象徴として振られたシュロの枝が、一年の時を経て焼かれ、灰となり、悔い改めのしるしとして額に描かれる——これは、わたしたちの人生そのものを映すような象徴的な行為です。わたしたちは生まれ、歓喜の中で迎えられ、さまざまな経験を積み重ねながら生きていきます。しかし、やがて肉体は朽ち、元の塵に帰っていく。しかし、その一方で、神の前に悔い改め、心を新たにすることで、人は新しい命を受け取ることができるのです。

 灰は、旧約聖書の中で幾度も登場します。それは、悲しみ、悔い改め、そして神の前にへりくだる姿勢の象徴でした。ヨブは、自らの限界を悟ったとき、「塵と灰の中で悔い改めます」と言いました(ヨブ記42:6)。彼は、自らの知恵と正しさに固執していたときには見えなかったものが、苦しみの中で神と向き合うことで見えるようになったのです。ダニエルも、神の憐れみを求める祈りの中で、「断食し、荒布をまとい、灰をかぶった」と記されています(ダニエル9:3)。彼は、自分自身だけでなく、イスラエルの民の罪をも背負い、神の前に立ちました。

 しかし、最も劇的な悔い改めの場面は、ニネベの人々に見られます。ヨナが神の裁きを告げると、ニネベの王をはじめとして、すべての人々が断食し、灰をかぶり、神の憐れみを求めました(ヨナ書3:5-6)。彼らは、自らの罪を認め、ただ神の憐れみにすがるしかないことを悟ったのです。そして神は、彼らの悔い改めを見て、裁きを思い直されました。この物語は、神がいかなる時も人の悔い改めを待っておられることを示しています。

 ヨエル書の預言者ヨエルもまた、「心からわたしに立ち帰れ」(ヨエル2:12)と呼びかけます。この言葉は、単なる外面的な悔い改めではなく、心の奥底からの変化を求めています。悔い改めとは、単なる「反省」ではなく、生きる方向そのものを変えることです。

 パウロはコリントの信徒への手紙二の中で、「今こそ恵みの時、今こそ救いの日です」(2コリント6:2)と語りました。悔い改めは、「いつかの機会」にするものではなく、「今この時」に行うべきものです。わたしたちの人生は、有限です。いつか悔い改めよう、いつか神に立ち帰ろう——そう思い続けているうちに、その「いつか」は永遠に訪れないかもしれません。灰の印は、そのことをわたしたちに思い起こさせます。

 今日の福音書の中で、イエスはわたしたちの信仰の在り方を問いかけます(マタイ6:1-6,16-21)。施し、祈り、断食——それらは、人々の目に見えるためのものではなく、神との関係の中で行うものです。信仰の行為は、外面的なパフォーマンスではなく、神の前で真実であることが求められます。イエスは言われました。「施しをするときには、右の手のしていることを左の手に知らせるな」(マタイ6:3)。これは、わたしたちの信仰の実践が、神への応答として行われるべきであり、人に認められることを目的とするものではないことを示しています。

 また、イエスは「自分の宝を地上に積むのではなく、天に積みなさい」(マタイ6:19-20)とも語ります。この世の富や栄光は、やがて朽ち果てるものです。しかし、神の前に積み上げられた宝は、決して朽ちることがありません。灰の印は、わたしたちに問いかけます。何を求め、何を大切にし、何に心を向けて生きるのか、と。

 灰を受けるとき、わたしたちは自らの限界を知ります。自分がどんなに努力しても、どんなに富を築いても、どんなに名誉を得ても、すべてはやがて消え去ることを思い知らされます。しかし、同時に、それでも神はわたしたちを愛し、憐れみをもって受け入れてくださることに気づかされます。わたしたちは塵にすぎません。しかし、その塵に、神はご自身の息を吹き込まれました。そして、その息は、わたしたちが塵に帰るときも、決してわたしたちを離れることはありません。

 神の前でへりくだり、悔い改める者を、神は決して拒まれません。ヨブが、ダニエルが、ニネベの人々がそうであったように、わたしたちもまた、神の憐れみのもとに帰ることができます。灰の水曜日に、わたしたちは自分の弱さを認めながらも、神の愛によって生かされていることを思い起こしましょう。

 灰は、すべてが終わった後に残るもの。しかし、それは滅びの象徴ではなく、新しい命が始まるしるしでもあるのです。

Ⅱ 隠れたところにおられる神——真実な信仰のあり方

 灰の水曜日、礼拝堂の静寂の中で、信徒たちは静かに額に灰の印を受けていきます。その姿は、誰かに見せるためのものではありません。ただ、神の前で、己が何者であるのかを見つめ直すためのものです。この日、わたしたちは人の目ではなく、「隠れたところにおられる神」のまなざしの下で、信仰の本質を問われています。

 イエスは、「人に見せるために、人前で善行を行わないように注意しなさい」(マタイ6:1)と語られました。この警告は、単に偽善を戒めるものではありません。むしろ、信仰の本質がどこにあるのかをわたしたちに思い出させる言葉です。わたしたちは、神の前にどう生きるのか。それが、何よりも重要なのです。

1 信仰は「隠れたところ」で育つ

 古代ユダヤの社会では、施し、祈り、断食は、信仰を示す最も大切な行為とされていました。しかし、イエスは、それらが形骸化し、外面的な評価を求める手段となることを戒められました。

 「右の手のしていることを左の手に知らせるな」(マタイ6:3)
 この言葉は、施しの本質を鋭く突いています。善い行いをすること自体は正しいのですが、それを誇示したり、他者の評価を求めるならば、その行いはもはや神のためではなく、自分自身の栄光のためのものになってしまいます。

 信仰とは、誰にも知られなくとも、神の前に誠実に生きることです。イエスは、「隠れたところで見ておられる父が、あなたに報いてくださる」(マタイ6:4)と言われました。これは、わたしたちの信仰が、人目に映るものではなく、神の前にこそ試されるものであることを示しています。

2 人の目を気にする信仰と、神の目を意識する信仰

 現代の世界では、わたしたちは常に誰かに見られ、評価されながら生きています。SNSでは、どれだけ「いいね」がつくか、どれだけ人々に認められるかが、行動の動機になってしまうことがあります。善行でさえ、人に見せるためのものになりがちです。

 しかし、イエスが示された信仰は、そのような表面的なものとは異なります。信仰の行為は、誰かに見られるためではなく、神との関係の中で静かに育まれるものです。

 たとえば、祈るとき——イエスは「奥まった自分の部屋に入り、戸を閉めて、隠れたところにおられる父に祈りなさい」(マタイ6:6)と言われました。これは、わたしたちの信仰の在り方を問う言葉です。神への祈りは、見せるものではなく、ただ神の前に静かに向かうものなのです。

3 断食の本質——神の前に生きること

 さらに、イエスは断食についても語られました。「断食するときには、顔を洗い、頭に油を塗りなさい」(マタイ6:17)。これは、断食の本質が人に見せるためのものではなく、神への応答としてなされるべきものだということを示しています。

 ユダヤの伝統では、断食の際に顔をこわばらせ、悲しみを前面に出すことが敬虔さの証とされていました。しかし、イエスはそれを拒まれました。信仰とは、人に認められることではなく、神の前でどのように生きるかということが問われるものだからです。

4 神の報いは「隠れたところ」で与えられる

 イエスは、「隠れたところで見ておられる父が、あなたに報いてくださる」と繰り返し語られました。この「報い」とは何でしょうか。それは、人の評価ではなく、神との親しい交わりに生きることそのものです。

 信仰とは、神の前で誠実に生きることです。それは、人の目に映らない場所での生き方にこそ現れます。誰にも見られなくても、わたしたちが誠実に生きるとき、神の報いはすでに与えられているのです。

5 灰の水曜日に問われるもの

 灰の水曜日は、わたしたちの信仰の在り方を見つめ直す時です。人の目を気にするのではなく、神の前にどう生きるのか——それこそが、大斎節の始まりにふさわしい問いなのです。

 静かに灰の印を受けるとき、わたしたちは「隠れたところにおられる神」と向き合います。人の評価ではなく、神の目を意識して生きる信仰へと招かれるのです。

Ⅲ 天に積む宝——わたしたちの生きる目的

 人は、生きている間に何を築き、何を遺そうとするのでしょうか。わたしたちは日々、財をなし、知識を蓄え、人との関係を築き、社会的な成功を求めながら生きています。けれども、それらのすべては、時間の流れとともに移ろい、やがて手のひらから零れ落ちるものではないでしょうか。

 灰の水曜日に告げられる言葉——「あなたは塵であり、塵に帰るのです。」この宣言は、ただ死の現実を告げるものではありません。それは、わたしたちがこの世において何を求め、何を宝として生きるのかを問い直す、深遠な呼びかけなのです。

1 朽ちる宝と永遠の宝

 イエスは、「自分の宝を地上に積むのではなく、天に積みなさい」(マタイ6:19-20)と言われました。この世でわたしたちが積み上げようとするものは、どれほど価値のあるものに見えたとしても、決して永遠ではありません。富は増えるかもしれませんが、盗まれることもあれば、使い果たしてしまうこともある。地位や名声は、ある日突然、失われることがあります。知識や業績も、時の流れの中で色あせ、忘れ去られてしまうでしょう。

 わたしたちは皆、この世の歩みにおいて、多かれ少なかれ「積み重ねること」に励みます。しかし、それらは本当にわたしたちの魂の糧となるものでしょうか。それとも、わたしたちの目を曇らせ、神の国への道を見失わせるものなのでしょうか。

2 天に積む宝とは何か

 「天に積む宝」とは、神の御前に価値を持つものです。それは、人の評価や社会の基準とはまったく異なります。パウロは、「信仰と希望と愛、この三つはいつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛です」(1コリント13:13)と語りました。愛は、わたしたちがこの地上で築きながらも、神の国へと持ち越せる唯一のものなのです。

 愛とは、単なる感情ではなく、行為です。天に積む宝とは、具体的な行いとして示される愛に他なりません。

  • 傷ついた人に寄り添い、癒しの言葉をかけること

  • 他者を赦し、和解の道を選ぶこと

  • ひそやかに祈り、誰かのために神の恵みを願うこと

  • 何かを失うことを恐れず、惜しみなく与えること

 これらの行為は、目に見える富とは異なり、すぐに結果が表れるものではないかもしれません。誰にも知られずに終わることもあるでしょう。しかし、神の前では、これこそが決して滅びることのない「宝」となるのです。

3 どこに宝を置くのか——心の向かう先

 イエスは、「あなたの宝のあるところに、あなたの心もある」(マタイ6:21)と言われました。わたしたちの心は、何を宝とするかによって、その在り方が決まります。

 もし、わたしたちが地上の富や名声を最も大切にするなら、わたしたちの心はそこに縛られます。しかし、わたしたちが神の国を第一に求めるならば、わたしたちの心はそこへ向かいます。

 人生の終わりに至るとき、わたしたちは「何を得たか」ではなく、「何を与えたか」を問われるのではないでしょうか。この世の基準では、どれほど成功したかが重要視されるかもしれません。しかし、神の国の価値観においては、「どれだけ愛したか」が問われるのです。

 わたしたちは皆、やがて地上の旅路を終え、神の御前に立つ日が来ます。その時、わたしたちは何を手にしているでしょうか。自分のために築いたものか、それとも、他者に注ぎ、惜しみなく与えた愛の業か。

4 天に積む宝を求める歩み

 大斎節は、わたしたちが「何を宝とするのか」を見つめ直す時です。
 この四十日間の旅を通して、わたしたちは改めて自分の歩みを振り返ります。わたしたちは何を求めて生きているのか。地上のものに執着してはいないか。わたしたちの心は、本当に神の国へと向かっているのか。

 イエスがわたしたちに求めておられるのは、偽りのない、純粋な信仰です。神の前で静かに、誠実に生きること。施し、祈り、断食——それらが人の目のためではなく、ただ神のために行われること。それが、天に積む宝となるのです。

 この世の価値観にとらわれず、神の国の価値を生きること。それこそが、わたしたちに求められている歩みではないでしょうか。

 「あなたの宝のあるところに、あなたの心もある。」
 この言葉を胸に刻みながら、大斎節の旅路を歩んでいきましょう。

Ⅳ 悔い改めの恵み——神の招きに応える

 しんと静まり返った礼拝堂で、灰の印を受けながら、わたしたちはある言葉を思い起こします。「あなたは塵であり、塵に帰るのです。」この宣言は、わたしたちの儚さと限界を突きつける言葉です。しかし、それだけではありません。これは、神のもとへ立ち帰るようにという、深い憐れみに満ちた招きでもあるのです。

 灰の水曜日を迎えるたび、わたしたちは「悔い改めること」の意味を考えます。悔い改めとは、単なる罪の告白ではなく、人生の方向を根本から変える決意です。それは、新しい光のもとで歩み始めるための恵みの機会なのです。

1 「心からわたしに立ち帰れ」——神の求める悔い改め

 ヨエル書の預言者ヨエルは、「心からわたしに立ち帰れ」と呼びかけます(ヨエル2:12)。これは、「表面的な行いではなく、心の奥底から神へと向き直ることが必要だ」というメッセージです。

 旧約の時代、イスラエルの民は、断食し、荒布をまとい、灰をかぶることで悔い改めのしるしを示しました。しかし、ヨエルは「衣を裂くのではなく、心を裂け」(ヨエル2:13)と訴えます。これは、「外側の儀式ではなく、心の真実な変化こそが神の求めるものなのだ」という強烈なメッセージです。

 この言葉は、わたしたちの信仰生活にも当てはまります。神は、ただ「悔い改めの言葉」を求めているのではありません。わたしたちの人生の方向が、本当に神の方へと向かっているのかどうかを問うておられるのです。

2 「今こそ恵みの時、今こそ救いの日」

 パウロは、コリントの信徒への手紙二で「今こそ恵みの時、今こそ救いの日です」(2コリント6:2)と語りました。この言葉は、わたしたちに悔い改めの緊急性を思い起こさせます。

 わたしたちは、「もっと落ち着いたら」「状況が変わったら」「準備が整ったら」——そう言って、悔い改めを先延ばしにしがちです。しかし、神の招きは「いつか」のものではなく、「今この時」のものなのです。

 聖書には「今」という言葉が何度も登場します。なぜなら、神の恵みは過去のものでもなく、未来のものでもなく、「今」わたしたちに与えられているからです。神は、わたしたちが「もう少し準備ができたら」ではなく、「今、立ち帰ること」を望んでおられます。

3 「悔い改め」は罰ではなく、愛への招き

 「悔い改め」という言葉には、時に「罪の重荷を背負うこと」というイメージがつきまといます。しかし、聖書が語る悔い改めは、裁きや罰のためではなく、愛へと招かれるためのものです。

 イエスが語られた放蕩息子のたとえ(ルカ15:11-32)は、そのことをはっきりと示しています。

 遠い国で財産を使い果たし、飢えに苦しんだ息子は、絶望の中で「父のもとへ帰ろう」と決意しました。彼は、「もう息子と呼ばれる資格はありません。ただの雇い人の一人にしてください」と言おうと考えていました。

 しかし、彼の帰りを待ち続けていた父は、遠くに彼の姿を認めると、走り寄り、抱きしめました。彼は「息子としての資格はない」と思っていましたが、父は彼を「息子として」迎え入れました。

 このたとえ話は、神の愛の本質を映し出しています。神は、罪にまみれたわたしたちを裁くために待っておられるのではなく、「帰ってくるなら、いつでも迎えよう」と待ち続けておられるのです。

 だからこそ、悔い改めは「恐れるべきもの」ではなく、「恵みの扉が開かれる瞬間」なのです。

4 「わたしたちは、本当に変われるのか?」

 それでも、わたしたちは「本当に変われるのか?」という疑念を抱くことがあります。「何度も同じ過ちを繰り返している」「本当に神は赦してくださるのか?」——そんな不安がよぎることもあるでしょう。

 しかし、聖書は繰り返し語っています。
 「主は憐れみに富み、怒るに遅く、慈しみに満ちておられる」(ヨエル2:13)。

 神は、わたしたちがどんなに遠くへ離れても、戻ってくるならば赦してくださるお方です。どれほど自分が罪深いと思っていても、神の憐れみはそれをはるかに超えるものなのです。

5 神のもとへ立ち帰る——今、この瞬間に

 大斎節の期間、わたしたちはこの悔い改めの道を歩んでいきます。しかし、それは暗く重苦しい道ではありません。それは、神が待っておられる道なのです。

 神は、わたしたちが完全な人間になることを求めておられるのではありません。ただ、「心を尽くして、立ち帰ること」を望んでおられます。

 悔い改めとは、罰を受けることではなく、神の愛の中にもう一度生きること。
 赦しは、いつでも神のもとにあります。だからこそ、わたしたちは「今」神の招きに応えなければなりません。

 「今こそ恵みの時、今こそ救いの日。」
 この言葉を胸に、わたしたちは神のもとへと帰り、新たな歩みを始めていきましょう。

Ⅴ 灰の水曜日から始まる旅——新しい心で歩む

 礼拝堂の静寂の中、灰の印が額に描かれるとき、わたしたちは「あなたは塵であり、塵に帰るのです」という言葉に心を向けます。この言葉は、人の儚さを告げると同時に、神の愛の深さを思い起こさせます。わたしたちは限りある存在ですが、その限りある命が、神の手の中でどのように生かされるのかを、この灰のしるしは問いかけているのです。

1 「新しい心を造ってください」——内側からの変革

 灰の水曜日を迎えるたび、わたしたちは悔い改めとは何かを考えます。しかし、それは単に「過去を振り返り、誤りを正すこと」ではありません。それは、神の前に心を開き、新たに造り変えられることへの願いなのです。

 詩編の詩人は祈ります。「神よ、わたしに清い心を造り、新しく確かな霊を授けてください」(詩編51:12)。この祈りは、わたしたちの変革が自己努力によるものではなく、神の恵みによってなされるものであることを示しています。

 エゼキエル書には、神の約束としてこう記されています。「わたしはあなたたちに新しい心を与え、あなたたちの中に新しい霊を授ける。石の心を取り除き、肉の心を与える」(エゼキエル36:26)。神は、わたしたちの頑なな心を柔らかくし、愛と憐れみに満ちた心へと変えてくださるのです。

 悔い改めとは、自分を責めることではなく、神に心を開くこと。自分を変えようとするのではなく、神に変えていただくこと。それは、自己否定ではなく、神による新しい創造なのです。

2 大斎節の四十日間——試練と恵みの旅

 灰の水曜日から始まる四十日間の大斎節は、イエスが荒野で過ごされた四十日間に倣うものです(マタイ4:1-11)。荒野は、孤独と試練の場でした。しかし、それは同時に、神との深い交わりの場でもありました。

 わたしたちの人生にも、荒野のような時があります。目の前の道が見えず、祈っても神の声が聞こえないように感じることがあります。しかし、イエスが荒野を通られたように、わたしたちもまた、この試練の時を通して神に近づくことができるのです。

 大斎節の四十日間は、何かを「失う」期間ではなく、「見つける」期間です。

  • 不要な執着を手放し、神への信頼を深める

  • 応答的な祈りの中で、神との対話を深める

  • 隣人への愛を実践する

 断食や節制は、「神こそがわたしたちの真の糧である」ことを思い起こさせます。わたしたちは、物質的な豊かさや自分の力に頼るのではなく、神の言葉によって生きる者へと変えられていくのです。

3 「灰の水曜日は、復活の希望へと続く」

 灰の水曜日は、悔い改めの始まりの日であると同時に、復活へと続く道の第一歩です。
 わたしたちは、この日、自らの限界を知ります。しかし、それと同時に、神が限界を超えて働かれることを信じる日でもあります。

 「あなたは塵であり、塵に帰る。」
 この言葉は、わたしたちの存在のはかなさを告げますが、それは絶望の宣告ではありません。それは、神の手の中で新しい命へと生まれ変わる希望の宣言でもあるのです。

 聖書の中で、神は塵から人を造られました(創世記2:7)。塵は、無価値なものではなく、神の創造の素材です。神は、塵に息を吹き込み、命を与えられました。そして、わたしたちが再び塵に帰るとき、神は再び新しい命を与えてくださるのです。

 だからこそ、灰の水曜日は、復活の希望へと続く道の第一歩なのです。

4 赦しと新たな歩み

 灰の水曜日のもう一つの大切なテーマは「赦し」です。わたしたちは、神の前に罪を告白し、赦しを求めます。しかし、それは「裁かれるため」ではなく、「新しく生きるため」です。

 放蕩息子のたとえ(ルカ15:11-32)が示すように、神は罪を裁くためではなく、悔い改める者を迎えるために待っておられます。

 父のもとへと帰った息子は、「もう息子と呼ばれる資格はありません」と言おうとしました。しかし、父はその言葉を遮るように彼を抱きしめ、衣を着せ、宴を開きました。

 神の赦しとは、こういうものです。

  • 条件なしに、迎え入れる赦し

  • 過去を問わず、新しい未来を開く赦し

  • 拒むことなく、抱きしめる赦し

 この赦しの恵みを受けたとき、わたしたちもまた、他者を赦し、新たな歩みを始めることができるのです。


結語

 灰の水曜日は、わたしたちの限界を思い起こさせる日でありながら、神の無限の愛と赦しを思い起こさせる日でもあります。

 この日、わたしたちは悔い改めを決意します。しかし、それは悲しみに満ちた決意ではなく、神の愛の中での決意です。

 「今こそ恵みの時、今こそ救いの日。」
 この言葉を胸に、わたしたちは神のもとへと帰り、新たな歩みを始めていきます。

 灰は、ただ朽ちるものの象徴ではありません。それは、新しい命の始まりのしるしです。

 わたしたちは、塵にすぎません。しかし、その塵に神は息を吹き込み、新たな命を与えてくださるのです。

 この大斎節の旅を通して、わたしたちはどこへ向かうのでしょうか。地上のものではなく、天に積む宝を求めるのか。自分の力ではなく、神の恵みによって生きるのか。

 灰の水曜日から始まるこの旅路が、わたしたちをより神に近づけ、より愛に生きる者へと変えていくことを願いながら、新たな歩みを始めていきましょう。


灰の水曜日の祈り

 永遠の神、天地の造り主、
 あなたは御手をもって塵を集め、わたしたちに命の息を吹き込まれました。
 あなたの御前に立つわたしたちは、ただの塵にすぎず、
 やがてその塵に帰る者であることを、
 今日、この灰のしるしをもって心に刻みます。

 憐れみ深き主よ、
 わたしたちは幾度も道を誤り、
 己の知恵に頼り、虚栄に心を奪われ、
 あなたの御声に背を向けてまいりました。

 にもかかわらず、あなたはわたしたちを捨てず、
 「心からわたしに立ち帰れ」と慈しみをもって呼びかけてくださいます。

 どうか今、この頑なな心を砕き、
 あなたの愛の中に生きる者とならせてください。

 全能の父よ、
 あなたの御前に、わたしたちは衣を裂くのではなく、
 心を裂いて悔い改めます。
 わたしたちの隠れた罪を洗い清め、
 朽ちるものに執着する心を取り除き、
 あなたが与えようとしておられる、
 新しい霊と確かな信仰を授けてください。

 この大斎節の歩みを通して、
 より深くあなたを知り、
 より真実にあなたを愛する者となることができますように。

 聖なる救い主、主イエス・キリストよ、
 あなたは荒野の試練に耐え、
 罪なきお身体を十字架に捧げられました。
 それは、わたしたちが罪の闇から解き放たれ、
 新しい命に生きるためでした。

 どうかわたしたちがこの四十日の旅の中で、
 あなたの御足の跡をたどることができますように。
 断食と祈りのうちに、己を誇ることなく、
 ひそかに施し、へりくだってあなたに仕えることができますように。
 わたしたちの目をこの世のものから引き離し、
 天に積む宝を求める心を与えてください。

 聖霊なる神よ、
 あなたは柔らかな風のように、
 静かに、しかし確かに、
 わたしたちの心に働かれます。
 どうか今、わたしたちを新たにし、
 冷え切った心に命の火を灯してください。
 この大斎節の間、誘惑に惑わされることなく、
 主にある平安のうちを歩むことができますように。

 主よ、わたしたちは塵にすぎません。
 しかし、その塵に、あなたは御手を伸ばしてくださいます。
 わたしたちは脆く儚い存在ですが、
 あなたの憐れみによって新しくされます。

 この灰の水曜日が、悔い改めの苦しみではなく、
 新しい命へと生まれ変わる希望の日となりますように。

 父と子と聖霊の御名によって、
 アーメン。

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平和と正義のために祈り、歩む教会へ 《自由と友愛の独立カトリック教会大主教寄稿文》

見過ごせない現実と、信仰からの問いかけ  今の日本を見つめると、長いあいだ変わらぬ政治のかたちと、それに伴う新自由主義的な政策が、社会の隅々にまで深く根を下ろしているのを感じます。その結果、豊かさが一部に集中し、生活の不安や孤立感を抱える方が後を絶ちません。特に声を上げにくい立場にある人たちの苦しみは、表には出にくい分、いっそう深く、重く積み重なっているように思えます。  それでも、わたしたちは希望を捨てません。信仰は、ただ現実を嘆くためのものではないからです。むしろ、人間の限界や弱さを知りながら、それでも変わらぬ神の愛と正義を信じる――その確かさに、私たちは支えられています。 憲法第9条と、平和を生きる勇気  日本国憲法の第9条は、戦争の悲惨な記憶を受けとめ、「武力ではなく対話によって平和を築こう」と決意した国民の思いを、かたちにしたものです。この条文が語る理念は、国際社会の中でも特別な価値をもつ、貴い約束だと、わたしたちは受け止めています。  もちろん、今の世界は決して平穏ではありません。多くの国で安全保障への関心が高まり、「軍備強化」という言葉が当たり前のように語られています。しかし本当にそれだけが、わたしたちの選ぶべき道なのでしょうか。  イエスさまはこう教えてくださいました――  「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ5:9)  争わない選択をする勇気、対話をあきらめない忍耐。それこそが、神に呼ばれた民としての責任であり、日本が示せるもう一つの道なのではないでしょうか。 格差と向き合う信仰――尊厳ある暮らしのために  今の日本では、働いても報われないという声をよく聞きます。非正規雇用や孤立した老後の不安、都市と地方のあいだに広がる格差……。それはただの数字ではなく、日々を生きる人たちの痛みの現れです。  イエスさまは言われました――  「飢えていたとき、あなたたちは食べ物を与えた」(マタイ25:35)  目の前の苦しみに気づかぬふりをすることは、キリスト者として見過ごせない態度です。富や機会は、神がすべての人に与えてくださった恵みであるならば、それを分かち合い、支え合う社会を築くことこそ、信仰に生きる道だと思うのです。 地球と共に生きる――神の創造を守る責任  自然の恵みの中で生きているわたしたちは、地球を「自分たちのも...

大斎節第一主日 二〇二五年三月九日 ▼ 教会時論「国際女性デー50年——意識と制度、変革のとき」他 ▼ 説教「荒野を越えて、御言葉に生きる」

  教会時論・説教(2025年3月9日)  わたしたちは日常を生きる中で、時代が刻む痛みや揺れ動く社会の声をどれほど受け止めているだろうか。世の中に溢れるニュースは、決してわたしたちと無縁ではない。  社会の変容や事件の深層には、わたしたちが信じる価値や良心を絶えず揺さぶり、問い直す力がある。今週もまた、わたしたちは目を背けることができない出来事を目の当たりにした。ジェンダー平等への道のりがあまりにも遠い日本社会、原発事故裁判が明らかにした社会的責任の在り方、米国で高まる自由と民主主義への危機、兵庫県知事をめぐる倫理と権力の問題、そして大船渡で猛威を振るった山火事が示す自然との共生の難しさ―。  これらの現実を冷静に見つめ、その奥にある問題の本質を掘り下げることが求められている。今こそわたしたちは、傍観者ではなく当事者として社会に向き合い、信仰と行動を通じて応答すべきである。今日の《教会時論》がその一助となることを願いつつ、論考を始めたい。 国際女性デー50年——意識と制度、変革のとき  今年の3月8日、「国際女性デー」が国連で制定されてから半世紀を迎える。50年前、女性の権利向上と社会参加を世界規模で推進すべく立ち上がったこの記念日は、女性たちの長い闘いの歴史に光を当ててきた。  しかし、日本に目を向けると、そこに映るのは道半ばどころか、いまだ進歩の兆しが見えにくい現状である。  日本社会の男女平等度を示す指標は、昨年も国際的な比較で低迷を続け、146か国中118位にとどまった(世界経済フォーラム調査)。特に政治分野と経済分野における遅れが顕著だ。たとえば、昨年の衆院選で女性議員の割合は過去最高の15.7%となったが、有権者の半数が女性である事実を前に、この数字を「前進」と呼ぶのは憚られる。  政党や政治の世界には今なお男性中心の意識が蔓延し、女性の参画を促す環境整備や、クオータ制の導入をはじめとする実効的な改革は後手に回ったままである。  企業の現場もまた同様である。わずかではあるが女性役員の登用も見られるようになったが、1600社以上ある上場企業の中で女性CEOはわずか13名、全体の0.8%にすぎない。女性たちは出産や育児によるキャリアの途絶を余儀なくされ、非正規雇用に追いやられるケースも多い。さらには、男女の賃金格差は解消されるどころか、依然として根...

聖霊降臨後第三主日 二〇二五年六月二十九日 ▼ 説教草稿「振り返らずに従うという自由」

 ▼ 説教草稿「振り返らずに従うという自由」 【教会暦】 聖霊降臨後第三主日 二〇二五年六月二十九日 【聖書箇所】 旧約日課 :列王記上 一九章一五〜一六節、一九〜二一節 使徒書  :ガラテヤの信徒への手紙 五章一節、一三〜二五節 福音書  :ルカによる福音書 九章五一〜六二節 【要旨】 自由とは、欲望のままに生きることではない。それは、キリストに従うことによって与えられる、霊による新たな生き方である。エリシャは農具を焼き、過去を手放して預言者の召命に応えた。主イエスは、手を鋤にかけた者が後ろを振り返ることなく、神の国のために歩むよう招く。私たちは、愛によって互いに仕え合い、霊の実を結ぶ自由の道を歩む者として召されている。 【本文】 神の国へのまなざしを整える時  聖霊降臨の祝日から数えて三つ目の主日を迎えたこの日、私たちは、神の国の到来を見つめつつ、地におけるキリストの道をあらためて問われる。  典礼の色は緑である。それは、単に安定や成熟を表す色ではない。この季節において緑は、聖霊によって養われる成長のしるしである。信仰はただ芽吹くだけでは不十分であり、霊的な実を結ぶことこそが本質であると、聖霊降臨後の諸主日は繰り返し私たちに告げる。  けれど、成長とは、静的で緩慢な過程ではない。それはむしろ、断念と決断、召命と応答という切断の繰り返しを経て成立する。きょう与えられた聖書箇所はいずれも、過去との断絶を伴う召しに対して、ひとがどう応答するかを描いている。そしてその応答のかたちは、古代の預言者にも、初代教会の信徒にも、主イエスと道を共にする弟子にも、それぞれ異なる様相を帯びている。  「自由」の季節――それがこの主日のもう一つの霊的背景である。ガラテヤ書が語る「キリストによる自由」は、ただの解放ではない。むしろそこには、「愛によって互いに仕え合いなさい」という制限がある。この矛盾のような真理の内に、信仰者の成熟があるのだ。  今ここに集う私たちも、神の召命に対し、自由の霊に導かれつつ、なお振り返らずに歩む者となるよう招かれている。 召命とは、焼き尽くす決断である——エリヤとエリシャの交代劇  旧約日課の舞台は、エリヤとエリシャ、ふたりの預言者の交差の瞬間である。北イスラエルの王アハブの時代、偶像礼拝と霊的退廃が極みに達していた。エリヤはカルメル山でバアルの預言...
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